D-580 西田幾多郎
Nishida Kitarou

 西田幾多郎 1
 西田幾多郎 2
 西田幾多郎 3 西田幾多郎 4
作家名
D-580 西田幾多郎にしだ きたろう
作品名
詩書
価格
750,000円(税込)
お申込み中
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 共箱
『長良川画廊の現在と未来』所収
  本紙寸法37.5 ×119
全体寸法(胴幅)44×205㎝
作家略歴

西田幾多郎
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コンディション他

《七里はま夕日漂ふ波のへに伊豆の山々果し知らすも 寸心》

美品且つ優品です。

(補記)
西田幾多郎は、昭和3年(1928)、京都大学を定年退職後、昭和6年(1931)12月、女子英学塾(現在の津田塾大学)の教授をしていた山田琴と再婚し、昭和7年(1932)4月、七里ヶ浜を見下ろす鎌倉の稲村ヶ崎に一軒家を構えた。(現在は西田幾多郎博士記念館となり学習院大学によって管理されている) 西田はここに昭和20年(1945)2月、亡くなるまで過ごす。この七里ヶ浜にこの歌の歌碑があり、その碑文を鈴木大拙が書いている。この歌碑について、建築家で「鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会」事務局長の福澤健次さんのブログ「山上楽雄 記」に詳しいので、以下引用する、

七里ヶ浜の西田幾多郎歌碑

   本棚の隅に岩波の「波 2000・5」が偶然残っていて、そこに今は亡き井倉退蔵先生(人文地理学)の労作とも言える調査報告が載っていた。貴重な記事なので事実に関し出来るだけ忠実に、再録する。

 哲学者西田幾多郎がよく散歩した七里ヶ浜海岸の中ほどに西田博士を記念する歌碑がある。二メートル程の高さの、丸みある形に造られた巨岩で上部に西田作の歌が刻まれている。

『七里浜夕日漂ふ波の上に伊豆の山々果し知らすも 寸心』

 この歌碑の創建の経緯がはっきりしないのを井倉先生が調べてくれたのである。先生は十数年前に始まった市民の会の「鎌倉の世界遺産・連続シンポジウム」に毎回出られて、いつも真っ先に質問をしてくれた懐かしい存在であった。

 平成元年、七里ヶ浜海岸が海浜公園として整備された時、鎌倉市が説明板を付設したが、建設経緯の明記は無かった。碑の裏面には詳細な記載があったが、風波に曝され磨り減ってしまっている。 姥ヶ谷の旧宅には記念碑の拓本が掛軸としてあり、西田の六十有余年の親友であった鈴木大拙の、次の撰文が判明した。

「碑面の歌ノ作者西田幾多郎君ハ、ソノ性海ヲ愛シタノデ末年ハ七里ヶ浜辺ニ居ヲ定メ、波打際ニ沿フテ散策シツツ思索シタノデアル、波ノ動キハソノ著作ノ中ニモ漂フテ居ルト信ゼラレル、散策ノ際ニ出来タ此歌ニモ単ニ波ノ音ヲキキツツ入ル日ヲ見、山山ヲ見タト云フダケデナク、又伊豆カラ出テ鎌倉幕府ヲ開イタ頼朝ノ一生ヲ偲ブト云フダケデナク、更ニ悠久ナル歴史ノ流レノ中ニ個人ノ影ヲ映シテ行クトノ意味モ詠ミコマレテ居ルト考ヘラレル、君ハ単ニタダ思索スル哲学者デナカッタ、暖カイ生キタ心ノ持主デアッタ、ソレデ此歌ハ歌人ノ作トシテデナク、哲人ノ一面ヲ現ハシタモノトシテ見ルベキデアラウ」

 1951年 文 鈴木大拙、書 朝比奈宗源、計 坂倉準三、建 安成三郎、工 矢橋六郎

 以上だが、鈴木大拙、朝比奈宗源の名は本ブログの「日本の・・・と仏教思想の変遷」に記した。坂倉はル・コルブジェに師事した建築家で県立近代美術館の設計者、碑の建設世話役をした安成氏はこの歌碑の歌(昭和10年作)の自筆の色紙を所有する西田博士の信奉者、矢橋氏は洋画家で家業が岐阜の㈱関ヶ原石材であった。記念碑の原型が出来たとき、当時の「美術手帳」に写真入りで紹介され、「坂倉氏の前衛的なフォルムだけに今後の歌碑形体に新しい方向を指示するものとして大いに期待される」と評された。

 さて、建設の経緯であるが、安成氏が当時の草間時光鎌倉市長に企画を示し、草間市長が当時の市会議員であった久米正雄・香取任平の両氏と図り、土地選定を引き受けた。(香取の「花鳥亭日記」近藤書店から)

 建設経費の出所については、石川県宇ノ気町にある西田記念館の(当時の)館長西村弘氏から伊倉先生に送られてきた「西田寸心先生歌碑建立趣意」、建立「清規(しんぎ)」、「賛助者御芳名」などの書類で判明した。

 建設趣意書の日付は昭和二十三年十一月三日、発起人筆頭に鈴木大拙、次に西田門下生の務台理作、和辻哲郎、谷川徹三、安倍能成、次いで鎌倉在住の久米正雄、小島政二郎、川端康成、里見弴と鎌倉文士達、有島生馬・小野竹喬などの画壇人の名も見え、発起人総数は三十名である。

 「清規」の第一項には「賛助者各位に色紙若干若しくは絹本一枚御執筆を願ふこと」とあり、第二項には「右御作品相当数に達した時即売展覧会を開催し其売上を以て歌碑建立費用に充当の予定」とある。 「建立趣意」、「清規」に賛同した人々は「御芳名録」によれば総計245名に及び発起人と合わせて分類すれば、最多が日本画家の102名、次いで洋画家が83名、作家が36名、その他の芸術家14名などで、哲学者・思想家は16名である。当時の日本を代表する学者・文化人によって占められていたことは、署名者の中に文化勲章受章者が56名に及ぶことからも分かる。

 多数の発起人・賛同者に依って、西田博士記念歌碑は昭和26年7月15日に除幕式を迎えた。その模様は香取氏の前記日記に記録されている。碑面にある歌は團伊玖磨により混声四部合唱曲に作曲されていたが、あいにくの雨の中で前田幸一郎氏指揮、鎌倉コール120名による合唱で歌われた。そして記念碑は、西田博士の令孫啓子さんの手で除幕された。

 合唱の後で鈴木大拙師が「個はほろびるでしょう。しかしそのかたちなきもの―思想は永遠なものと思う」と語ったという。

 式の列席者には他に久米正雄、安倍能成、河合良成の各氏、草間市長ほか多数の鎌倉市民が居たという。香取氏日記の最後は、「八十代の大拙から、二十代の團、前田まで謂ふところの『鎌倉文化』の幅の広さ深さといひ、七里ヶ浜の大景観といひ、市民が大哲人を敬慕するの念といひ『鎌倉はほんとにいいところ』と、いま更のごとくありがたくおもった」と結ばれているという。

 西田幾多郎の本を手に取ったことのある鎌倉市民や散策者に、ぜひ知っていて欲しいと思って書き綴ってみた。

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