賀茂真淵
Kamono Mabuchi

 賀茂真淵 1
 賀茂真淵 2 賀茂真淵 3 賀茂真淵 4 賀茂真淵 5
作家名
賀茂真淵 かもの まぶち
作品名
森繁子宛書状
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 紙裂 合箱
本紙寸法83.5 ×15
全体寸法86.3(胴巾)×97㎝
註釈

【原文】
さ月に御ふみ給はし。いよいよ平ら
けくおはさうするそ、うれしき。ここに
ことも侍らてなん、さるは御歌見せ
給へる、墨引てまいる。かの奉り
給ふを余りにおそなはれ候。五十首
にて奉らんとよ。さてもよろしかりなん。
七十首出来給ふを見せ給へ。猶
考ぬへく候。□も書給はんとよ。
いかておもしろく書給へかし。
又其御社の大神の御名をあけ
て五首、又年中の祭の月日
を挙て又奉る物楽、その外
又御領地の村々の事なとをよみ
おき給はば、末の代にいたりても、し
かたと成ことも有へし。その見得
して末に得となるへき事を題
にてよみ給へかし。三とせに一度、東へ
給ふこと、むかしはとしことなりしか、
二とせとなり、三とせとなりしなとの
事も有なん。歌によまれさることは、
書にてもよし。これらは常有ことなれは、
よみかたき事も有なん。されと又、
思へは歌になる物にてそ侍る也。先
五十首を奉りて後、右の事をは、
おもひおこして、さる類の事を一巻、
書もよみもし給はんかし。其は必と
申にはあらす。ふと心つき候へは申のみ。
御かたがたの君より御つたへこと在り
なん、よろしうたのみ奉る也。
一、みむすめの君はとかくに御もとに
おはすにや。もし御望に候はば、紀伊
の今の宮の御母君を清信院
様と申せり。むかしより御歌はおのれか教へ
まいりて、よに御心さしふかく、何にても
おのれか申事は、なして給はりぬ。さて
此秋は紀伊国はおはします也。
此御ともして御こし候はば、よくやと
おもひ付侍れは申也。それも今の
世にては人少なにし給ふなれは、必ならん
や、知かたけれとも、さもとおほさは申て
見侍るへき也。かの国へ御ともしても、
その時の極めにて、五年とか四年三年
とかいふ事にて侍り。こなたへかへる人の
ついてもあれは、末まてといふには侍らす。
一、かの宮の御かたの事は、いまたしかと
也し事にもあらねは、のほりなんことは
いひかたし。おのれも、ゐんきょなから
そふちも下□□御用も有なれは、
自由ならぬ身は侍る也。よろつは
猶申し候はん也。みな月のとおまりここぬか。
しけき子の君 まふち
まめのは鯛のひもの給ひし、忝うをりをり
物してなん。是は国にて□をたうへかしをこひしく
さいしけかたへも先年いひ遣しおこせて侍りしか、
ほしたるはすくれてうましも侍らす。とかくに
遠江にては、あぢ・すずき・かんほら、此ひものに
つづく物侍らず。かさねて給はらは、此内を給へかし。

【訳文】
五月に御手紙をいただきました。いよいよ御平穏にお過ごしのこと、うれしく存じます。こちらも何事もございません。
さて、お作りになった歌をお見せくださいましたので、墨を引いてお返しいたします。あのお奉りになられたものは、あまりに遅くなりました。五十首そろえてお奉りになられるとか。それもよろしいでしょう。七十首できたものをお見せください。さらに考えてみたいと思います。□もお書きになるとか。なんとか面白いものをお書きください。 また、そのお宮の神様の名前を挙げて五首、また年中の祭の月日をあげて、また奉る物楽など、そのほか、また御領地の村々の事などをお読みおきになれば、行く末になって、規範となることもあるでしょう。そのように見当をつけられて、後々のためとなるようなことを題にしてお読みくださいませ。
三年に一度、東へ行かれることは、昔は毎年でしたが、二年に一度となり、三年に一度となったのでございます。歌に読めないようなことは、文章に書いてもよろしいです。これらのことは、常にあることですから、歌に読みがたいところもございましょう。しかし、また考えてみれば、何とか歌になるものでございますよ。
まずは五十首を奉った後で、右に申しましたことを思い起こされて、このようなたぐいの事を一巻き、書いたり読んだりしてください。それは、必ずというものではありませんが、ふと心づきましたので申し上げました。皆々様より御伝言がございましょう。どうぞよろしくお願いいたします。
一、娘様はそちらにいらっしゃいましょうか。もし御望みでございましたら、紀伊の今の宮の御母君を清信院様と申しますが、昔から歌は私がお教えしまして、とてもお志があるかたで、何でも私が申し上げることはお聞き下さいます。この秋は紀伊国にいらっしゃいます。このお供をしておいでくださればよろしいのではと思いつきましたので申し上げました。それでも、最近は供の人数を少なくされますので、必ずそうなるかどうかわかりませんが、お気持ちがおありでしたら、そのように申し上げてみましょう。
あちらの国へお供して行かれても、その時の取り決めで、五年とか四年三年とかの間の事でございます。こちらへ帰る人のおついでがあれば、最後までということもございません。
一、かの宮の御かた様の事は、今確かに決まったということでもございませんから、お上りになるかどうかは申し上げられません。私も隠居の身ではありますが、掃除や御用もありまして、自由にならぬ身でございます。なお色々なことを申し上げたいと思います。
水無月(六月)とおまりここのか(十余り九日=十九日)
しけき子の君 まふち
まめのは鯛(金目鯛のことか?)の干物をお送りいただき、かたじけなく戴いております。これは国で□からいただいたのを、こいしく、さいしけかた(?)へも、先年送るように言いつけておきましたが、干したものはたいしてうまいものでもございません。ともなく、遠州では鰺・鱸・寒鯔などの干物に及ぶものはございません。またいただけるものでしたら、これらの中のものをいただきたいと存じます。

【解説】賀茂真淵が門人森繁子に宛てた書状である。歌の読み方について(後の記録ともなるようなものも題材とせよ)、真淵と関係する人々の動静について(紀伊国関係)、真淵の嗜好について(干物好き)、など色々な観点からの内容豊富な書状。
宛て先の森繁子(もりしげきこ、1718~1796)は真淵の門人。また真淵周辺で紀州と関係するのは、同じく真淵の門人で、紀州徳川家の中屋敷で、宗将の正室富姫に仕えた鵜殿余野子(うどのよのこ、?~1788)がいる。余野子はまた、宗将の側室八重の方に仕えるが、この「八重の方」こそ、書状中に出る、後の清信院(1718~1800)であり、清信院が真淵に入門するにあたっては、余野子の仲介があったものと思われる。この清信院は、宣長を迎えた好学の和歌山藩主徳川治宝の祖母で、真淵の門人でもある。寛政六年に和歌山に招かれた宣長は、清信院の屋敷でもあった吹上御殿で、清信院に源氏物語の講釈をしている。

箱書き 「濁なく汲て秘しける高き名の世になかれたるあかたゐの水 健冬」
訳文「にごりなく汲んで秘蔵しておいた清らかな水のようなその純粋な学問の令名が、今自然に世の中に流れあふれている、それが県居(あがたい)の大人(うし)真淵先生の学問である」。健冬は不明。