祇園南海/歴史人物 1/掛け軸、絵画の買取 販売 鑑定/長良川画廊

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歴史人物 1
D-310 祇園南海

D-310 祇園南海
Gion Nankai

 祇園南海 1
 祇園南海 2
 祇園南海 3
 祇園南海 3 祇園南海 3
 祇園南海 3
作家名
D-310 祇園南海 ぎおん なんかい
作品名
詩書
価格
350,000円(税込)
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 象牙軸 合箱
本紙寸法27.8×125.8
全体寸法30(胴幅)×205㎝
作家略歴

祇園南海
延宝4年(1676)~宝暦元年(1751)

紀州藩医祇園順庵の長男として生まれる。名、瑜(ゆ)。字、伯玉。通称、余一。新羅三郎義光に発する源氏であることから、源瑜、阮瑜と自称した。出生地は江戸を通説とする。元禄2年(1689)、木下順庵に入門し朱学を学ぶ。同じ門弟に、榊原篁洲、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、松浦霞沼らがいる。元禄9年(1697)、父の死去により家督を継ぎ、元禄12年(1699)、紀州藩儒となる。元禄13年(1700)、「放蕩無頼」(『祇園系譜』)、「不行跡」(『家譜』)により二百石の知行を取り上げられたうえ、長原村(現在の和歌山県紀の川市貴志川町長原)に謫居を命じられる。宝永7年(1710)、藩主徳川頼方(後の将軍吉宗)によって放免され紀州城下に戻る。(この放免には新井白石の尽力があったと伝えられる。)正徳元年(1711)、儒官に復す。同年、江戸に於いて室鳩巣、三宅観瀾らとともに朝鮮通信使応接の任にあたる。朝鮮の学士李東郭は南海の漢詩を高く評価し、南海の『伯玉詩稿』に序文を寄せる。正徳2年(1712)、朝鮮通信使応接の功により知行二百石に復す。正徳3年(1713)、藩校湊講館が創設され教官となる。以降没するまで藩儒を務め、50歳前後からは本格的に画作に取り組み、その画業は、池大雅や彭城百川ら次代の文人画家に大きな影響を及ぼし、文人画創始者の一人に数えられる。

コンディション他

【原文】
幽意在詩不在醪
来此世人一等高
入門事々尤古怪
蔵書未肯後劉曺
祇園瑜(印)

【読み下し文】
幽意詩に在りて 醪(ろう)に在らず
此(ここ)に来る世人(せじん)一等に高し
門に入れば 事々尤(もつと)古怪(こかい)
書を蔵して未(いま)だ劉(りゆう)の曹(やから)に後んずるを肯(がえ)んぜず

【現代語訳】
深い趣きというものは、詩の中にはあるが、ここにある濁り酒にはそんな趣きなどない。しかし、ここに集い来る人々は、一様にみな高潔な人物ばかり。ひとたび門をくぐると、ことごとくすべてが古めかしく奇っ怪さに溢れている。中国前漢の劉安は、書を愛し、一癖ある多くの人物が集ったと聞くが、決してその連中にもひけをとらない者たちが集まっているのだ。

幽意(ゆうい)・・深い思い、物静かな思いや趣きをいう。
醪(ろう)・・こしていない酒、濁り酒、どぶろく。
一等(いっとう)・・区別なく等しいこと、一様であること。
劉(りゅう)・・中国前漢時代の皇族(淮南王)。『淮南子』の主著者。

本紙に若干ヤケとヨゴレ。