新渡戸稲造 Nitobe Inazou

文久2年(1862)~昭和8年(1933)

陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)に生まれる。父十次郎は南部藩士。明治4年(1871)年、叔父太田時敏の養子となり上京。明治8年(1875)、東京英語学校に入学。この頃から内村鑑三、宮部金吾と親交を深める。明治10年(1877)、内村鑑三、宮部金吾とともに札幌農学校(北海道大学)に入学。初代教頭として赴任したW.S.クラークの起草した「イエスを信ずる者の契約」に内村鑑三、宮部金吾らと署名。明治14年(1881)、同校を卒業。開拓使御用掛、農商務省御用掛を経て、明治16年(1883)、帝国大学(東京大学)に入学。翌17年、渡米、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。経済、農政、歴史、英文学などを学ぶ。明治20年(1887)、札幌農学校助教に任命され、ドイツへ留学。ボン大学、ベルリン大学、ハレ大学で農政学、農業経済学、財政学、統計学などを学ぶ。明治23(1890)、『日本の土地所有、その分配と農業経済的利用について』でハレ大学より文学士、哲学博士の称号を得る。明治22年(1889)、長兄七郎の死により、新渡戸姓にもどる。明治24年(1891)、クエーカー派の集会で知り合った、メリー・エルキントンと結婚。同年、帰国し、札幌農学校教授に就任。明治27年(1894)、札幌に勤労青少年のための遠友夜学校設立。同校は、札幌農学校の生徒が教師となり、授業料無料、教科書貸与で、後、軍事教練を拒み廃校に追いこまれるまで50年間運営され、中退者を含めると6000人もの生徒が学んだ。明治32年(1899)、日本初の農学博士となる。明治33年(1900)、アメリカで『Bushido-the soul of Japan』出版。明治36年(1903)、台湾総督府臨時糖務局長と兼任で京都帝国大学法科大学教授となる。、明治39年(1906)、東京帝国大学農科教授と第一高等学校校長を兼任。大正7年(1918)、東京女子大学初代学長となる。大正9年(1920)、国際連盟事務局次長就任。昭和元年(1926)、貴族院議員となる。昭和7年(1932)、松山での講演後の記者会見で発言した「我が国を滅ぼすのは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら今では軍閥と答えねばならない」が報道され、在郷軍人会や右翼からの大きな批判を受け、帝国在郷軍人会評議会で陳謝する。同年、満州事変により、日米関係が悪化するなか、渡米し、出渕駐米大使とともにフーバー大統領を訪問、さらにスチムソン国務長官との対談をラジオ放送で行うが、アメリカ世論の反感を買う。昭和8年(1933)、カナダバンフでの太平洋会議に日本側理事長として出席。体調の優れない中、日本側代表として演説を成功させるが、その1ヶ月後に病で倒れ、カナダのビクトリアで客死する。

新渡戸稲造 心外無別法
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