川端康成 Kawabata Yasunari

明治32年(1899)~昭和47年(1972)

大阪市北区此花町に生まれる。父、栄吉は、医師で、漢詩文、文人画をたしなんだ。母、ゲン。4歳上に姉芳子がいた。母を2歳の時、父を3歳の時に相次いで亡くし、大阪府三島郡豊川村大字宿久庄(茨木市宿久庄)で祖父母に育てられる。明治39年(1906)7歳、祖母死去。明治42年(1909)10歳、姉芳子死去。大正2年(1913)14歳、大阪府立茨木中学校2年。この頃、小説家を志す。大正3年(1914)15歳、祖父死去、孤児となり、母の実家に引きとられる。『十六歳の日記』書く。大正6年(1917)18歳、茨木中学を終え、旧制第一高等学校に進学。この頃ドストエフスキイに傾倒する。大正8年(1919)20歳、今東光を知り、東光の父から心霊学への興味を持たされる。一高「校友会雑誌」に『ちよ』を発表。大正9年(1920)20歳、第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部英文学科に入学。大正10年(1921)、石浜金作、鈴木彦次郎らと第六次『新思潮』を創刊。2号に載せた『招魂祭一景』によって菊池寛らに認められる。大正10年(1921)22歳、本郷のカフェ・エランにいた伊藤ハツヨとの恋愛、婚約、破談という事件が起きる。菊池寛の家で、芥川龍之介、久米正雄、横光利一に紹介される。大正11年(1922)23歳、国文学科に転科。大正13年(1924)25歳、東京帝国大学国文学科卒業。昭和元年(1926)27歳、松林秀子と同居。処女作品集『感情装飾』(金星堂)刊行。昭和2年(1927)28歳、第二作品集『伊豆の踊子』(金星堂)刊行。昭和6年(1931)32歳、松林秀子と結婚。昭和9年(1934)35歳、越後湯沢で『雪国』連作を書き始める。昭和12年(1937)38歳、初の単行本『雪国』(創元社)刊行。昭和19年(1944)45歳、『故園』『夕日』などによって、第六回菊池寛賞を受賞。昭和22年(1947)48歳、『続雪国』(小説新潮)発表、『雪国』完結。昭和23年(1948)49歳、志賀直哉のあとを受け、ペンクラブ第四代会長に就任。昭和27年(1952)53歳、『千羽鶴』(筑摩書房)を刊行、これにより芸術院賞を受賞。昭和28年(1953)54歳、芸術院会員となる。昭和32年(1957)58歳、国際ペンクラブ執行委員会出席のため渡欧。モーリアック、エリオットらに会う。9月、第29回国際ペンクラブ大会を東京、京都で開く。昭和33年(1958)59歳 国際ペンクラブ副会長に就任。昭和36年(1961)62歳、文化勲章の受賞。昭和46年(1971)72歳、三島由紀夫葬の葬儀委員長をつとめる。昭和47年(1972)、4月16日夜、逗子マリーナの仕事部屋でガス自殺。享年72。

川端康成 生活は芸術である
生活は芸術である
川端康成 生涯一片山水
生涯一片山水
川端康成 寿無涯
寿無涯

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