上杉鷹山 Uesugi Youzan

上杉鷹山
宝暦元年(1751)~文政5年(1822)

日向国(現在の宮崎県全域)高鍋藩主秋月種美の次男として江戸に生まれる。名は、幼名、松三郎または直松、宝暦10年(1760)10歳、米沢藩主上杉重定の養子となり、直丸勝興と改名。明和3年(1766)、元服して治憲。享和2年(1802年)52歳、剃髪し鷹山と号した。母の春姫は、4代目米沢藩主上杉綱憲の孫娘。

明和元年(1764)、賓師として、細井平洲を招く。

明和4年(1767)17歳、9代目米沢藩主となる。同年、12か条からなる大倹約令を発令し、藩主自ら、家計の支出を、千五十両から二百九両に切り詰め、日常の食事は一汁一菜、普段着は木綿、奥女中も50人から9人に減らした。

鷹山は、藩主になるあたり、上杉家の氏神である春日明神に立志の誓文を捧げる。

一、文武の修練は定めにしたがい怠りなく励むこと
二、民の父母となるを第一のつとめとすること
三、次の言葉を日夜忘れぬこと 贅沢なければ危険なし 施して浪費するなかれ
四、言行の不一致、賞罰の不正、不実と無礼を犯さぬようつとめること これを今後堅く守ることを約束する。もし怠るときは、ただちに神罰を下し、家運を永代にわたり消失されんことを。

以上
上杉弾正大弼 藤原治憲
明和四年八月一日

 この人物が直面することになった仕事は、他人なら皆しりごむ内容でありました。鷹山が養子として入った上杉藩は、太閤以前の世にあっては、全国でもっとも強大な藩でした。広大で豊かな越後領をはじめ、日本の西岸に数カ所の領地を所有していました。太閤の手で会津の地に移され、大幅に勢力をそがれました。それでも、まだ百万石余の大藩で、藩主は全国の五大名の一人に数えられました。その後、悪いことには、石高はさらに半分に減らされました。  鷹山が藩主になったときはには、上杉家は十五万石の大名でありながら、昔のままの百万石の家臣を抱え、当時の習慣やしきたりをことごとく踏襲していたのです。

(『代表的日本人、二、上杉鷹山―封建領主』内村鑑三)

安永元年(1772)、遠山村にて「籍田の礼」を始める。

 藩主、執政、郡奉行、代官、教導出役、廻村横目の全員が礼装して、まず春日神社へ進み、神に行事とその目的を報告しました。一行は、最近開かれたばかりの土地に進み、そこで藩主は、最初に鍬を手にして、厳粛に大地を三度打ちます。次に執政が九度打ちます。そのあと郡奉行は二七度、代官は八一度打って、最後は、まさに「大地を耕す人」である農夫に至ります。これは、今後、大地が神聖なものとして扱われ、生活に恵みをもたらすものは、すべて大地から与えられるという期待を、公然と宣言する意味がありました。決して迷信ではありません!

(『代表的日本人、二、上杉鷹山―封建領主』内村鑑三)

安永5年(1776)、城下の元篭町に藩校「興譲館」を創設。

天明5年(1785)、家督を養嗣子上杉冶広に譲る。その後も、相談役として藩政に参与する。

 冶広に授けた藩主の心得「伝国の辞」

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候

一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候

右三条御遺念有るまじく候事 天明五巳年二月七日 治憲

享和2年(1802)、「伍十組合の令」発布。

農民の天職は、農(農作物を作る)、桑(蚕を育てる)にある。これにいそしみ、父母と母子とを養い、お世話料として税を納める。しかし、これはみな、相互の依存と協力とをまってはじめて可能となる。そのためにはある種の組合が必要である。すでに組合がないわけではないが、十分頼りになるものではないと聞いている。それで新たに次のように伍十組合と五か村組合を設ける。

一、五人組(戸数のみを数える。以下同じ)は、同一家族のように常に親しみ、喜怒哀楽を共にしなければならない。

二、十人組は、親類のように、たがいに行き来して家事に携わらなければならない。

三、同一村の者は、友人のように助けあい、世話をしあわなければならない。

四、五か村組合のものは、真の隣人同士がたがいに、どんなばあいにも助けあうように、困ったときは助け合わなければならない。

五、たがいに怠らずに親切をつくせ。もしも年老いて子のない者、幼くて親のいない者、貧しくて養子の取れない者、死んだのに埋葬できない者、火事にあい雨露をしのぐこ  とができなくなった者、あるいは他の災難で家族が困っている者、このような頼りの  ない者は、五人組が引き受けて身内として世話をしなければならない。五人組の力が  足りないばあいには、十人組が力を貸し与えなければならない。もしも、それでも足  りないばあいには、村で困難を取り除き、暮らしの成り立つようにすべきである。も  しも一村が災害で成り立たない危機におちいったならば、隣村は、なんの援助も差し  伸べず傍観してよいはずがない。五か村組合の四か村は、喜んで救済に応じなくては  ならない。

六、善を勧め、悪を戒め、倹約を推進し、贅沢をつつしみ、そうして天職に精励させるこ  とが、組合を作らせる目的である。田畑の手入れを怠り、商売を捨てて別の仕事に走  る者、歌舞、演劇、酒宴をはじめ、他の遊興にふける者があれば、まず五人組が注意  を与え、ついで十人組が注意を与え、それでも手に負えないときは、ひそかに村役人に訴えて、相応の処分を受けさせなければならない。

享和二年(一八〇二)二月

(『代表的日本人、二、上杉鷹山―封建領主』内村鑑三)

文政5年(1822)3月12日、72歳で死去。

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上杉鷹山 寿山高福海深
寿山高福海深

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