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むらかみ ひでお
昭和8(1933)~平成30(2018)
岐阜県土岐郡肥田(現・土岐市)に10人兄弟の三男として生まれる。父が警察官であったため、何度か転校をし、昭和20年(1945)12歳、父が定年退職し、父の実家のあった岐阜県養老郡養老町に戻る。昭和23年(1948)15歳、岐阜県養老郡高田中学を卒業。牛乳配達、看板屋の手伝い、養鶏場など日雇いの仕事をしながら、ゴッホに憧れ独学で油絵を始める。昭和28年(1953)20歳、 画家を志して上京、はじめは父の友人の紹介で銀座のレストラン「美濃屋」にコック見習いとして勤める。やがて「美濃屋」を退職してからは、ビル掃除、港湾労働などをしながら、粘土、レンガ、コールタール、鉄錆、鍋底の炭などを絵具代わりにして絵を描く。一時期、銀座の路上に寝泊まりする。昭和33年(1958)25歳、「篠原有司男個展」を見て感激、篠原に会う。中野や銀座でサンドイッチマンをし、安住孝史など画家志望の青年と出会う。仕事の合間に、画廊を巡ったり、美術学校に潜り込んだ。昭和35年(1960)27歳、この頃、北千住日ノ出町で下宿生活をしながら浅草の中華料理店「満楽」で働く。ここで描いた油彩《建物のある風景》が東光会に初入選。「満楽」をやめ、下宿を出て、荒川沿いの日光街道にかかる千住大橋鉄橋下で寝起きするようになる。昭和36年(1961)28歳、銀座並木通りの路上で絵を売っていたところ彫刻家本郷新に見いだされ、本郷の紹介により、兜屋画廊西川武郎の知遇を得る。その後西川の援助を受け、2年の間に60号程度の油彩を約300点描く。昭和37年(1962)29歳、《タワー》と《本郷》が安井賞候補となる。昭和38年(1963)30歳、新作150点による大個展を2月から4月にかけて開催、銀座松坂屋、名古屋松阪屋、大阪松阪屋を巡回し、好評を博す。同年4月から8月にかけてパリに遊学。昭和39年(1964)31歳、4月、ニューヨークを旅行。同年「村上肥出夫都会風景画展」(大阪毎日ギャラリー)、「巴里―紐育―東京を描く油彩・素描展」(銀座松阪屋)を開催、マスコミの注目を浴び、一躍画壇の寵児となる。昭和40年(1965)32歳、イタリア旅行。昭和42年(1967)34歳、中央大学学生だった作家北方謙三と出会い交友が始まる。昭和46年(1971)38歳、個展に際し、川端康成から「構図の整理などに多少のわがままが見えるにしても豊烈哀号の心情を切々と訴へて人の胸に通う」と評される。昭和47年(1972)39歳、パリに滞在し制作する。「サロン・ナショナル・デ・ボザール」に出品。「サロン・ドートンヌ」に出品し銀賞受賞。昭和50年(1975)42歳、個展に際し、石川達三から「村上君は時には詩を書く、時には天才的なデッサンを描く、そして何を考えて生きているんだか、私には見当が付かない。一種の出来損ないであるのか、それとも天使のような人間であるのか、とにかくつきあいにくい。しかし笑った顔は意外に純真である。そして作品はこの上もなく強烈である」と評される。昭和51年(1976)43歳、『パリの舗道』(彌生書房)刊行。昭和52年(1977)44歳、ブラジル旅行。昭和54年(1979)46歳、東京を離れ、岐阜県益田郡萩原町下呂温泉近くに自宅アトリエを構える。以後主に兜屋画廊での個展を続ける。平成9年(1997)64歳、荻原町の自宅アトリエが全焼し、約2万冊の蔵書、絵具、新作のエスキースなどが焼失する。それを境に精神に変調を来し、現在岐阜県高山市の病院で療養生活を続けている。平成16年(2004)71歳、「村上肥出夫と放浪の画家たち ―漂白の中にみつけた美― 」展(群馬・大川美術館)開催される。
(略歴・「村上肥出夫と放浪の画家たち ―漂白の中にみつけた美― 」展(群馬・大川美術館)図録より作成)
以下は、芸術新潮の編集者山崎省三が、作家たちとの交流を綴った『回想の芸術家』(冬花社)のなかの一文である。
「日本芸術大賞のこと」
この「日本芸術大賞」というのは、新潮社の二代目社長佐藤義夫の死を契機に設立された新潮文芸振興会が、昭和43年(1968)に企画発表した新潮三大賞の一つであった。選考委員は美術愛好家で新潮社とも関係の深い井上靖・川端康成・小林秀雄の三人の文学者に、専門家として土方定一が加わった。(中略)
鎌倉長谷の路地の奥、板敷きの広い台所からも、砂地の庭からもあがった覚えのある川端家の客間で、愛らしい少女の顔の埴輪を見せていただいたことも、たまたま出してあった古賀春江の小品にしげしげ見入ったことも思い出す。ある時は、先客だった骨董商が床の間に掛けた軸を、長い座卓に両肘を置いて、じっと凝視めていた川端さんの姿も目に浮かぶ。川端さんはいつも和服だったが、小柄でギロリと光る大きな眼と頬骨が目立つ鋭角的な氏に良く似合った。
ある日は、こっちに来て下さいと通された小部屋で、見慣れない油彩の街景を三、四点見せてくださった。村上肥出夫という素人でといわれるのだが、いわゆる素人画では全くなく、厚塗りらしいのに乾いた肌をした幅広な筆触によるガード下の景とか、並木と歩道とビルが描かれた銀座らしい街景とかであった。街景とはいうものの、風景画というよりは対象のすべてが静物(死せる自然)といった感じがあった。ものの終末を肌で感じとってしまっているような目差しが絵にあった。帰り道、私は、きっと川端さんは、村上青年のこのアナーキーな目差しに魅せられたに違いないと思ったり、ひょっとすると氏はかれの絵を(日本芸術)大賞の候補にもと、私に見せたのかと考え込んだりしたのだが、いずれにせよ、もうひとつ納得が行きかねる作品であった。
この村上肥出夫は銀座の裏町にリヤカーを置いて放浪の生活を送っているとかで、ある時、並木通りで絵をならべていたのを通りがかった彫刻家の本郷新が見つけて興味を持ち、早速旧知の兜屋画廊主に教えたのがきっかけで、やがてそこで個展を開いて評判になった。そうした過程の中で川端さんは彼の絵を知ったのであった。(続く)
(回想の芸術家たち・山崎省三)
川端康成は、昭和43年(1968)10月、ノーベル文学賞を受賞する。芸術新潮の編集者山崎省三が川端康成から村上肥出夫の作品を見せられたのは、ほぼノーベル文学賞受賞と時期を同じくする。川端康成は、このノーベル文学賞受賞を前後にして、昭和36年(1961)、文化勲章を受賞し、翌昭和37年(1962)、『眠れる美女』で毎日出版文化賞を受けて以降、急速に創作への意欲を失っていく。そして、この第一回日本芸術大賞が、香月泰男の「シベリヤ・シリーズ」に決定した昭和44年(1969)春から3年の後、昭和47年(1972)4月、逗子マリーナの仕事部屋で自ら命を絶つ。
芸術新潮の編集者山崎省三が感じた《ものの終末を肌で感じとってしまっているような目差し》の先に、川端康成の目差しは、何を見たのであろうか。
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会場/長良川画廊 東京ギャラリー 東京都港区六本木3-6-20 ザ・パークメゾン六本木 1F
会期/令和3年4月3日(土)~4月15日(木)
午前11時~午後6時
休廊日/休廊日 4月6(火)、7日(水)
会場/ギャラリーウートレ 岐阜市泉町16 山本ビル1階
会期/平成24年3月3日(土)~4月4(水)
午前10時~午後6時
休廊日/3月17日、18日、20日、31日