近代の世界的文豪坪内逍遙は美濃加茂市の出身である。太田宿にある祐泉寺の住職が逍遙の歌碑を建てるため逍遙に短歌を頼まれた。翁は早速ハガキに「山椿さけるをみればいにしえを 幼きこころを神の代と思ふ」と書いて送ってきた。翌日またハガキがきた。それは前の歌の「いにしえ」を「ふるさと」に訂正の依頼であった。逍遙は十一歳まで育った太田宿で、太田をこよなく愛した証である。つまりふるさととはその人の生まれ育った所である。私は中山道ミニ博物館を開館して十一年になる。その目的は岐阜県を育てた中山道を理解するための史資料とふるさとの秀れた人物の関係する史資料を集め、研究し展示公開することである。ふるさとの人物には神田孝平(福沢諭吉の親友)、長原武(吉田松陰の親友)、長原孝太郎(熊谷守一らの師)、大野是什坊(美濃派六世)、国井化月坊(同十五世)らの資料を集めてきた。また、県の歴史資料団体、文化財保護団体に永く関わっており、岐阜県をふるさととも考え、大垣市の梁川星厳、張氏紅蘭、小原鉄心、江馬細香、安八町の蓑虫山人、美濃市の村瀬藤城、村瀬秋水、高山市の田中大秀などの資料も集めてきた。このため毎日のように東京、京都、名古屋、岐阜その他の古書店等から目録が送られてくる。今の若い人はふるさとの愛着は少ない。私たちの子供の頃は遊び場は自然の川、林、山でそこに住む魚や虫が相手であった。また、ふるさとの土地は祖先や隣人が切り開いた所で、災害とも闘い、汗と血の滲んだ所で、墓もある。それだけにふるさとの愛着は強い。ふるさとを愛する人は世のため人のために尽くす人物が多い。人間の命を粗末にする人が多くなっている近年、ふるさとの自然、歴史、人物を大事にする心を育てることが急務である。
平成14年8月10日~8月13日 長良川通信1号掲載)
信長の岐阜命名 「策彦」の進言説 「岐阜」の名称は、「安土創業録」によると信長が命名したといわれているが、それ以前に「梅花無尽蔵」に「岐阜陽」とあり、「仁岫録」にも「岐陽」としるされているから、信長以前に禅僧によって岐阜と呼ばれていたことは、今日では常識となっている。松平秀雲により上梓された延享年間(一七四四~四七)の「岐阜志略」の巻一には、前記「創業録」による「沢彦」の進言となっているが、「増補岐阜志略」(寛政時代)によると岐阜の名称は、「深谷氏の私記に信長公の時、策彦和尚の名づくると創業録に見えたり(中略)然るときは信長公初めて名づけられしに非ざることを知るべしぞ。」と改めて記載している。前者は沢彦と言い、後者は策彦といっている。策彦(一五〇一ー七九)は天龍寺史によれば、京都の出身、明応九年(一五〇〇)生まれ、九歳で天龍寺に入り、のち塔頭妙智院に住み、同院の三世となる。天文六年(一五三七)木内義隆に謁し詩文の令名をはせた。同八年遣明副使として渡航、ついで同一六年には正使として再び入明し、同一九年に帰朝した。その際の日記「初渡集」「再渡集」は日明間の交通、貿易、文化の交流に関する貴重な史料である。北京に赴いて明の武宗に謁した。遣明船はこのあと断絶するので、結局策彦が最後の遣明船正使ということになる。「書の日本史」第四巻(平凡社版)掲載策彦周良の「晩過西湖」二首の解説者、芳賀幸四郎氏は、策彦は帰朝後、妙智院に住し、信長の依嘱をうけて、「岐阜」の地名を選び、「安土山記」の撰修者として南化玄興を彼に推挙したと説明している。また信長の招きを受け、甲斐の長興寺、恵林寺の住持たりしことあり、彼は五山文学掉尾の巨匠で、遺稿に「南遊集」「謙斎詩稿」「城西聯句」などあり、天正七年(一五七九)六月一日七十九才で妙智院で没したとある。策彦(妙智院を含む)と信長との関係文書は、「織田信長文書の研究」奥野高廣著(吉川弘文館)より二十五通掲載されているが、創業録にいう沢彦宗思(~一五八七)の文書は一通も掲載されていない。安土城復元研究の建築史家、亡宮上茂隆氏は、信長は策彦から聞いた中国の話の影響は大きく、信長館の「天主」閣という名の重層御殿の命名は策彦によるものである。幕府大棟梁平内家の秘伝書「匠明」に安土山に七重の亭を信長公が造ったとき、嵯峨の策彦に命じて殿守と命名したと書かれていることからも、「天主」という語は岐阜城に始まると考えられると述べている。稲葉山のことを現在金華山と呼称しているが、最近発見した策彦書「富士山の詩」の中に「金華」の名がある。
(濃尾の群像百人展 平成15年7月25日~7月28日 長良川通信2号掲載)
このところ長野県内にある美術館を巡り、中小の美術館で思わぬ作品に巡り合って感動している。美術館でひとつの作品を見ると、なぜそこにその作品が収集・展示されているのかを知りたくて、画廊経営者に尋ねている。
最近見た作品は、著名な岐阜県内出身の画家で、太平洋戦争の終戦直後に制作されたはがき三枚ほどの銅版画だった。さらに美術館受付の壁面には、岐阜県内のある大学の証明書が掲げられていた。そこで不思議に思って経営者に尋ねてみた。すると幸い経営者は事実関係を知っている人で、この二つの岐阜県に関係のある話は、直接は結びつかなかったものの、納得がいく説明を受けた。ほんの二十分ばかりの話し合いだったが、とても和やかなコミュニケーションができた。
しかし現物はあっても、そのいきさつを調べようにも終戦直後の事実関係を知っている関係者が見つからないと、解明できない。もう当時の様子を知っているのは八十歳以上の人。今調べておかないと、あと十年もすれば永久に解明できなくなってしまう恐れがある。
どうしても解明したい一つに一九四五(昭和二十)年八月十五日以降の郷土出版物がある。雨後のたけのこのように発刊されるが、三号雑誌で終ってしまっているものが多い。しかし、この中に、いまも光を放っている貴重な雑誌がある。それは「大衆読売」という。当時の県内各界で活躍している人たちが筆者・座談会などに登場している。しかし、この雑誌は創刊号がいつ出されたのか、終刊がいつなのか不明。わずかに岐阜県図書館に寄贈された十冊によると、四七年新年号(二巻一号・一月一日発行)の最後の編集室で社長・発行兼編集人山田義雄が「儲かりもしない雑誌を出し、その上憎まれ役を買って出る必要はなかろう、という老婆心に感謝している。しかし日本民主化の一端を受け持ち、どこまでも貫く覚悟」という意味のあとがきを記している。財界人の広告も「民主を賀す」とある。十月号が一周年記念号。山田は巻頭で「意気込んでいるが現実の風はあまりにも冷たくきびしい」と書いている。食糧・紙・資金不足の時代だったからである。
最近でも地方の時代といわれているが、四七年ごろ県内の識者らは「文学を地方から発信しなければならない」と同誌で提言している。これは、すでに、このころから文化人は地方の時代の到来を意識していた証明であるといえる。同図書館に保存されているのは四八年三月号までである。
この十冊が寄贈されたのは発行から三十年後だった。古書店などで時折、同誌を見かけるが、まとまったものは見かけない。
「大衆読売」に登場した人たちが四九年「岐阜文学」を創刊、さらに「幻野」(九九年九月から休刊中)に引き継いでいる。
「大衆読売」誌に登場してから現在も、活躍している県関係の文化人は十人足らず。そのいきさつを詳しく知っている人や同誌の通巻は見当たらない。
戦後の出版物と世相を知るうえで、最も重要視される雑誌の存在を確認したいと考えている。資料を保存していたり、事情の分かる人、興味のある人の協力がほしい。
(濃尾の群像百人展 平成16年1月10日~1月15日 長良川通信3号掲載)
私の郷土飛騨は、古くは「下々の国」と言われ、稔り乏しく、四囲山岳という他地域との交流困難な孤立した国であった。しかしそのことは飛騨独特の文化を形成し、平安期の言語の伝統を今なお方言の形で残しているという特殊な地域でもある。文学の面から見ると、江戸期には俳人加藤歩簫が居る。高山の有力者であったが、隣国の美濃より、むしろ近江との関わりが深く、「雲橋社」という俳諧集団を中心に活躍している。国学では本居宣長門の田中大秀がある。大秀は和歌にも長じ、大らかで独自の筆づかいには親しみを感じる。大秀門に俊秀が多く、歌人でもあった赤田臥牛・富田礼彦などがあり、飛騨国学は独自の流れを形成している。明治以降ではまず福田夕咲を挙げねばならない。北原白秋と早稲田の同級生であるが、福田家は高山の名家で、家業を継ぐため郷里に帰った夕咲は飛騨歌壇の中心的存在で歌風はおだやか、その筆致は優美でのびやかである。夕咲の周辺には山下笛朗・大野間霽江を初め、集まる人も多く飛騨短歌の基盤を創った人と言うべきであろう。俳句では福沢諭吉らと万延元年の遣米使節の一員となった下呂市下原の加藤素毛は、日本初の外遊俳人として特異の人物で、その「周海日記」に残された奔放な俳句は興味深い。近くは長瀬素鳥瓶、加藤紅、小鷹奇龍子など地域独自の俳壇を形成して来た。小説では「無限抱擁」の著者、芸術院会員で長く芥川賞選考委員をつとめた滝井孝作を挙げねばなるまい。孝作は碧梧桐門の自由律俳人としても活躍し、その経緯は「俳人仲間」に詳しい。やや新しいところでは江馬修・江夏美好の二人がある。修は梅村騒動を扱った「山の民」で、飛騨の民衆運動の原点を描いた。また、美好は飛騨市神岡町出身で、高山高女卒業後は名古屋に住んだが、「下々の女」で白川郷の合掌集落に生まれた母の生涯を描いて、懸命に生きる飛騨の女性の生き方を浮き彫りにした。こうしてみると、ごく一部を挙げただけであるが、飛騨出身の作家の描く郷里は、飛騨の自然の中で生きる人々の心情を掌握、活写し、風土や現実を背景として、その生きざまを伝達性の高い事実を踏まえながら描いていることが特徴のひとつであると言えよう。ところで、私は郷里飛騨に限らない愛着を抱いている。その郷里へに心魅かれる憶いが出発点となって、岐阜県出身の歌人・俳人の墨蹟の収集をめざしているが、入手することはなかなか困難で収穫が乏しい。地元の一部や縁戚の間では大切に保管されているが、ともすれば、骨董的価値が低いせいか、どんどん消滅する傾向にある。郷土の歴史や文化を見直し、再評価するという今日的課題の上からも、今こそしかるべき発掘・保存の手段を講ずる必要があると痛感するのは私ひとりではあるまいと思うのである。
(飛騨、美濃先人遺墨展 平成16年7月2日~7月5日 目録掲載)
一葉がお札になった。なんか痛ましい感じがする。一葉の日記を読むと、十八歳で、破産した家督を継がされ、さんざんお金で苦労する一葉がそこにいる。私はレジを使うが、お札を入れる時、なるべく一葉にしろ漱石にしろ、その顔が奥になるように入れている。手前になるように入れるとお札を押さえる留めバネがパチンと顔を叩いて下りる。その度に、「あ イタ(痛)!」と思ってしまうからだ。似たようなことは他にもある。幼い頃から本を足で扱ったり、文字が書いてある紙を踏んづけたりすると、母に「何をする!」と怒られた。その感覚が今も残っている。階段に文字が書いてあって、それを股いで行くときのいやな感じは今も消せない。 一葉の作品に「たけくらべ」や「にごりえ」があることはよく知られている。最近、それらの作品の現代語訳が相次いで出た。二葉亭や一葉、花袋や鴎外あたり、つまり明治初年代あたりからを近代だと受け取っていた私は、一葉の現代語訳が出たことにびっくりした。それで、一葉を読み直してみた。そして今更ながら、自分自身を含めた今日の国語文化のあり様を考えた。二葉亭の『浮き雲』当りから、口語化が始まるが、しか し明治の人は文語文、書簡は候文、それに漢文で育った。文章の口語化は急速に進むが、中等国語読本などを見ると大正元年(1912年)あたりでは、教材の八割までが、古典の抜粋だ。一葉が「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、・・・」で始まる『たけくらべ』を書くのは、明治二十七年、二十三歳の時だ。彼女は二年後の秋にはこの世に居なくなるから作品はごく短い間に書かれているが、やはり驚くのは、どうしたらあのような水準の高い文章が書けるかという一事だ。一葉は中島歌子の「萩の舎」塾で和歌、習字、古典を学んだ。上野図書館で本を読んだ。そこで思うのは一葉が育った文語の世界だ。文語は漢文の読み下しから始まったとも、平安の頃の京都語でそれまでの文章を踏まえて形を完成させたものだとも聞くが、ともあれ『源氏物語』頃にはその形が出来上がっていた。そして、文語はその後、さらに千年の歴史を持つ。一葉は才女だが、それだけであれだけの文章は書けない。彼女の文章を支えたのはこの千年を越える和語、文語、漢文、候文の、つまり日本語の表現的言語の歴史である。戦後、私たちはそれらの一切を捨てた。そして百年が経つ。最近注目されている「もったいない」ということばで言えば、真にもったいない、残念な事態だ。「文は人なり」、文章が全てである、という考えに私は賛成である。今日の日本経済の、いわゆる高度成長期以降の大量消費社会下での人間の荒廃、拡散も今日の言語、文章にかかわっている。ことば、というものはそういうものだ。文語世代の人間の影響はあるが、私は全く口語世代の人間だ。古典もたいして読んでいない。短歌が作れない。今、焦っているが、漢詩文の素養もない。書も駄目だ。そういうことで思い出すのは、一葉同様、早死にした中島敦だ。「李陵」(りりょう)や「山月記」の文章に驚く。中島は明治四十二年のうまれだ。その中島の文章は漢文くずしだが、悪くない。相当な文章である。そういうものに比べれば私のここでの文章の質など所詮、詮ないものだ。残念だが、今は仕方がない。
(飛騨、美濃 郷土の先人遺墨展 平成17年7月23日~7月28日 目録掲載)