安田理深
Yasuda Rijin
- 作家名
- 安田理深 やすだ りじん
- 作品名
- 易往而無人
- 作品詳細
- 掛け軸 紙本水墨 紙裂 合箱
作品寸法33×23.1
全体寸法44.8×193 ㎝ - 註釈
安田理深
明治33年(1900)~昭和57年(1982)農家の長男に生まれる。本名、亀治。号、無窓。明治39年(1906)6歳、鳥取市にあったキリスト教系の鳥取幼稚園に通う。大正5年(1916)16歳、鳥取市東町の私立造士学舎を修了。曹洞宗の日置黙仙老師より受戒。大正6年(1917)17歳、鳥取英語学校夜学会会員となる。大正7年(1918)18歳、このころ第百銀行鳥取支店に勤務。大正8年(1919)19歳、金子大栄の『仏教概論』を読み、強い感銘を受ける。大正9年(1920)20歳、京都へ出る。大正13年(1924)24歳、大谷大学学部大乗仏教科選科に入学。大正14年(1925)25歳、曽我量深が大谷大学に復職しその第一回講義に参加。曽我量深の唯識思想にふれ、以来、唯識思想の探求に思索の中心を置く。同年11月より金子大栄が編集発行人として発刊された雑誌『仏座』(昭和7年まで80号発行)に、我執を超克し無我を得る道を縁起法によって明らかにすることを主題として『縁起法の考察』を発表。昭和5年(1930)30歳、大谷大学を追放された曽我量深、金子大栄を中心とした興法学園を発足させ、雑誌『興法』の編集発行人となる。昭和10年(1935)35歳、曽我量深の命名による学仏道場「相應学舎」を開く。昭和18年(1943)年43歳、東本願寺において得度、法名を曽我量深の命名により「理深」とする。昭和19年(1944)4月より昭和21年(1946)年7月までの大谷大学に奉職。昭和35年(1960)60歳、パウル・ティリッヒと対談。昭和57年(1982)82歳、2月3日、相應学者における最後の講義を行う。同月19日、心不全のため死去。
以上略年譜は、主に『安田理深講義集』(全6巻・大法輪閣)より作成しましたが、安田理深の薫陶を受けた現代の優れた仏教思想家である本田弘之さんが、『親鸞教学 曽我量深から安田理深へ』(法蔵館)のなかで、生き生きと安田理深の思想と人を書いておられますので、その一部を長くなりますがここに引用いたします。
安田理深の求道の歩み
先生の求道ということについて、皆さんご存知ないでしょうから、お話しします。先生は幼い頃に不幸にして家族と別れた。もとは兵庫県の山奥、山陰側の谷をさかのぼった小さな村の庄屋の家筋にお生まれになった。けれども山陰の山奥の、それこそ本当に蓑笠を置くと田圃が一枚隠れると言われるほど急な斜面の段々畑を耕して、貧しい人達がどうやら作っている村でした。小さな村に生を受けられて、幼稚園の頃にはすでに、親戚を頼って鳥取に出ておられたらしい。
先生はめったに自分のことを憶い起こして語るということはなされなかったのですが、先生は鳥取ではキリスト教系の幼稚園に通っておられた。鳥取県は禅宗が盛んなところで、曹洞宗が力を持っているらしいのですが、どういう因縁からかキリスト教系の幼稚園に入られていたようです。
幼い頃のイメージとして、宗教者の態度といいますか、宗教者の生き方を憧れのようにして、先生は植え付けられたようでした。このことは、晩年に至るまで、キリスト教に対する尊敬とキリスト者に対する敬愛の念が、先生にはずっと続いているということを折にふれて感じました。
十代に入って、ご自分で発心して禅宗のお寺に随分と参禅に通われたようです。その通った禅宗のお寺の和尚から見込まれて、お前は修行してこのお寺の後を取ってくれと頼まれたのだということを冗談半分におっしゃったことがありまして、随分、熱心に座禅を組まれたらしい。
道元禅師に対して、安田先生は単に本を読むという関心ではなくて、求道の師として、人間の迷いを晴らし人生の苦悩を超えていった人として、一点も疑っておられなかったようです。ただ、何故先生は禅宗に腰を落ち着けなかったかという点が残るわけですが、それにつきまして先生は、悟りを開くとか、苦悩を超えるという点だけなら、自分は禅宗でもよかったということをふとおっしゃったことがありました。
しかし、先生の求道の問題は、単に宗教的要求というだけではなく、その宗教的要求が現代の問題とぶつかって、思想的な営みを持つという点にあった。ちょうど青年期が明治末期から大正にかかる頃で、思想的な書物などが世に出て来る時代でした。もちろん先生は文学に対しても非常に関心を持っておられて、夏目漱石のものなどは、初版本を若い頃にもう読んでおられた。そういうことで思想関心、文学関心というものが強くて、禅では悟りという方向だけであって、時代の人間の問題についてどうも物足りない、そういう思いがあったということをおっしゃったことがありました。
先生の一代の思想のお仕事というものが煮詰まって、ご自分が選んだテキストというものをみてみますと、ほとんど天親菩薩なのです。天親菩薩の『浄土論』、『唯識三十頌』さらには『十地経論』、こういう天親菩薩のものを先生は好まれて、その解釈という形をとりながら思索を深めていくことをもって、先生の思想の営み、聞法の営み、それが自ら学生を育て、あるいは宗教を要求する人の栄養になるということになっていった。
『願生偈』を天親菩薩が優婆提舎と名づけています。また、優婆提舎は論議経と翻訳されるのですが、論議経は如来の説かれた経典の一つの形式として名づけられる名前です。その優婆提舎の形とは、思想問題というものを練っていく、掘り下げていく。そういう形で経典が説かれる。曽我先生が『無量寿経』の本願を優婆提舎であるということで、『論議経としての四十八願』という論文をお書きになったことがあります。
宗教的要求を、空とか無とか、悟りとかいう形でとらわれを取っ払ってしまった状態として表現するのではなくて、その無をくぐりながら、それを本当に有の形を取って、人間の思索活動、ものを考える営みを通して、もう一度表現し直す。『無量寿経』の場合は、衆生を救済するという願いを通して、今一度宗教的要求を語りだす。そこで、優婆提舎という名前が名づけられてきているのだろうと思います。
代表的な思想家で久松真一という方がおられて、安田先生とほとんど同年代の方ですが、『東洋的無』という書物を書いています。それに対して安田先生は、「いつも久松さんは、無、無というけれど、仏教の特徴は、無だけではない。特に天親菩薩の思想というものをくぐれば、有の思想だ」ということをおっしゃっていました。
執着を離れて無に帰していくという一つの方向に対して、それを無視するのではないが、それを踏まえつつ、もう一度有として表現する。安田先生はこういうところに思想というものの力点を見つけておられて、先生自身が禅の立場から真宗に縁ができてきた。そういう思想的要求の必然性というものから、無から有へという方向性に求めて止まないものがあったということが思われます。
一つには若い頃に禅をくぐったということと、幼い頃にキリスト教をくぐったということが、先生の思想の営みにとって、もちろん生まれ育った立場が寺でなかっということが幸いしていて、宗教的な思想を普遍的なものとして明らかにしたいという課題となった。 晩年に先生は長崎に縁ができまして、長崎で加来玄雄さんという方が教務所長をしておられた時に、長崎の安居に安田先生を頼んだところ、先生はそれまではいわゆる宗派や教務所の仕事というものに対して、まず「うん」と言って出向かれたことがなかったのですが、加来さんという方が相応学舎の出身だったということもありますし、また長崎という場所に先生は非常にひかれて、毎年長崎へ安居の講義に出向かれました。晩年のことです。その時、先生は長崎に行くというだけではなくて、あらためて『長崎殉教者列伝』というような本を求められて、踏み絵の時代、クリスチャン殉教の歴史を紐解いて、長崎という町に象徴されるキリスト教と日本との出会い、その悲劇、そこに命をかけて信仰に生きようとした殉教者の信仰というものを(単に興味というだけではとてもできないほどの)情熱をかけて探っておられました。
そういうところが、寺に生まれ育って宗派の教義学といいますか、独善的な正しさというものを弁明するような立場とは全く違って、本当に宗教的要求に立って思想を明らかにしたいという歩みが、先生をしてここまで生かしめているのだということをつくづく感じさせられたことでした。大谷大学へ入学
そういう若き時代の先生の求道があった。たまたま私どもの宗派の中に、清沢満之先生の流れを汲んだ若き学徒として、金子大栄、曽我量深という方がおられた。金子先生がしばらく郷里に帰られた後、大谷大学に呼ばれて大谷大学の教授になられて、新進気鋭の学者として講義をはじめられた。その講義録がたまたま岩波書店から出版された。その頃、岩波書店の創業者の岩波茂雄社長がご存知のように、日本を文化国家にするために、自分が岩波書店を育てると同時に、学者も育ってほしいという願いで、これぞという学者には資金を援助してでも本を書いてもらうということがあったようでした。
誰を選んでいくかという一つの基準に、思想の方では西田幾多郎氏に目をつけて、西田氏の推挙のもとに学者を選んでいたらしいのですが、西田氏の目に若き金子氏がちょっと入ったのでしょう。そういう因縁があって、岩波さんは金子氏を高く評価されて、本を書くことを勧められた。それが『仏教概論』という書物になって岩波書店から出た。
今までのいわゆる古い教義学、江戸時代まで続いてきたような宗派の学でもないし、中国から伝来した天台とか華厳とか、それ以前の奈良仏教を支えてきた律宗とか法相宗とかいう古い仏教学ではなくて、本当に近代の仏教として思想的に応えようと努力した書物としては、おそらく日本では初めて出た仏教概論だろうと思うのですが、これを鳥取でいち早く安田先生は見つけられたらしい。
それを読んで同時に、これも親戚な何かを頼られて、無一物で京都へ飛び出して来られて、金子先生に入門を申し込まれたらしいのです。金子先生は、安田先生を熱心な学徒として認められ、大谷大学へ入るよう勧められた。そして、大谷大学に籍を置きながら、京都大学の西田幾多郎の講義に通ったり、思想的なものを求めて、十代の終わりから二十代の初めにかけてでしょうけれども、信じられないほど激しい求道的な読書生活を送っておられたようでした。
一九二四(大正十三)年から一九二五(大正十四)年にかけて、これもたまたま曽我先生が東洋大学の教授であられたのですが、請われて今一度真宗大学に関わってほしいという佐々木月樵先生の熱意ある説得を受けて、京都の大谷大学の教授になられた。曽我先生の講義のことを安田先生は憶い起こして、『曽我量深選集』の月報に書いておられます。曽我先生が教授となって来られたのが、安田先生が二十四、五歳の頃です。
曽我先生は東京にあった真宗大学の教授をしておられたのですが、一九一一(明治四十四)年にこの大学が廃校にされた。一時新潟に帰られた後に、再度東京に出られて、東洋大学を作られた井上円了さんの郷里が曽我先生と同じ新潟ということもあるし、同じ大谷派の方であったために、その頃東洋大学の仏教学の教授のポストに曽我先生が就いておられた。それを佐々木月樵さんが京都に来てほしいということで引っ張ったわけです。
背景を申し上げますと、皆さんはご存知ないかもしれませんが、京都では宗門子弟の教育は難しい。京都の本願寺の下では、今までの古い教学体系を超えるようなことをすれば必ず当局から弾圧がくる。だから東京に大学を作らなければならない。新進気鋭の学生を教育する場所は東京だということで、清沢先生は相当無理をおして、最晩年に巣鴨に真宗大学を建てられた。一九〇一(明治三十四)年です。一年後に先生は学生のストライキ問題の責任を取って、養家先の三河西方寺に帰られて、さらに一年後(明治三十六年)には亡くなっていかれたわけです。曽我先生は当初から真宗大学の教授をしておられたのですが、一九一一(明治四十四)年に廃校になった。
明治のこの頃は、日本の国家としては朝鮮に出ていくとか、大変国家主義的な植民地主義の勢いの強い時代、そして天皇制がますます強くなる時代、教団としては、財政逼迫の中でどうやって教団を立て直すかという危機感がある時代でした。一方では江戸期以来の封建的な考え方、封建的な教団体制というものの中に、十年間にわたって東京で育てられた若い学徒がだんだん教団の末端に帰っていって、新しい思想の話をするような状況が出てきて、古い門徒の方々あるいは年配の住職の方々から異端視される。何かにつけて弾かれ、疎まれる。そういう中にあって、暁烏敏・多田鼎・佐々木月樵・曽我量深・金子大栄という方々が、熱き情熱をかけて弾圧をくぐり抜けながら新しい信念を語ろうとしていた時代です。
そういう中で、佐々木先生が京都の真宗大学の学長になられて、金子先生を引っ張り、曽我先生を復帰させるという背景があるわけです。宗門の子弟を教育する最高学府としての真宗大谷大学に曽我先生は喜んで再び入っていかれたのでしょう。曽我先生が五十代の時です。その曽我先生と若き安田先生が出遇うわけです。雑誌『仏座』の発刊
安田先生は、時代の思想とぶつかりながら仏教の思想をいかに表現するか、どういうふうに考えるかということに日夜情熱をかけて苦闘しておられる曽我先生に出遇った。そして、曽我先生を中心にした聞法会が開かれ、『仏座』という雑誌が出ます。雑誌といってもパンフレットのようなものです。その雑誌『仏座』の中心は曽我先生の講義を載せるわけですけれども、そこに若き先生方が論文を載せる。大谷大学の教授方が論文を載せるわけです。
その中に、二十五歳の安田先生が論文を書いておられる。それが『安田理深選集』第一巻に載っている、『縁起法の考察』という題の大論文です。十回から十一、二回にわたって書かれています。毎月書いていった論文ですけれども、その内容たるや難解至極、ものすごい迫力です。本当に思想的な悪戦苦闘のあとが感じられる論文です。何を言っているかわからないほど、思想的に悪戦苦闘しながら言葉を選んで書いている。ちょっと読んでわかるなどというしろものではない。釈尊の説かんとした仏法の根源は縁起法にある。その縁起法ということが一代仏教の中心課題であるという根本直観に立って、一代仏教の思想を構成し直すというような大野心です。
また、曽我先生が大学で、『了別と自証』という講義を最初の年度になさったそうです。これは唯識論の中心のテーマになるわけです。意識というのは了別である。了別ということはものを分かつという作用、つまり分別ということと同じ意味ですけれども、分別という言葉は、虚妄分別という熟語になって伝えられるように、悪いイメージがついてしまう。だから、分別という言葉を避けられて、『唯識三十頌』を翻訳する時に、あえて玄奘が了別という言葉を使った。
意識の持っている本質は、何かを感じて判断するという作用だけではなくて、意識が意識自身を知っていることである。つまり自己意識性といいますか(自覚という言葉で言われますが、自覚というと、お前の悪い点を自覚せよというような反省意識のように取られてしまうから)、唯識の上では、それを自証というのです。
意識が意識自身を映していく、これが意識の本質である。自証という言葉で意識の本来性というものを、玄奘訳の護法唯識ではいわれる。曽我先生は、『了別と自証』というテーマを出されて、仏教学の講義をなされた。大体それまでの仏教学者の講義は、華厳概論とか天台概説とか教義学を説明するというのが普通であって、思想を語るというようなことは絶えてなかった。ところが、曽我先生が『了別と自証』というテーマで、仏教の根本問題を話された。これに安田先生は食いついたわけです。
安田先生と曽我先生との出遇いというものが、その後の安田先生の一生を決定したのだろうと私は推測するのですが、おそらく読書としては、清沢先生のものも読まれたでしょうし、あるいは唯識論も読んでおられた。自分の本能に唯識論が合うのではないかということは感じていた。しかし、教義学としての唯識学というものには興味がなかった。それが、曽我先生の唯識というものに出会って、自分の一生の課題はこれだというような思いがしたということを語っておられます。そういう曽我先生との出遇い、金子先生の『仏教概論』との出会い、このことが結局、安田先生を近代真宗教学の担い手とした。
先生自身は野に生まれた。先生のお宅はお百姓さんであって、先生自身の骨格はお百姓さんです。そんなに背は大きくなかったけれども、非常にがっちりとした、ちょっとやそっと叩いても壊れないようながっちりした骨組みの体つきで首も太く、何も肉体労働をしていないのに肉体労働者と言えるような風貌であられた。先生の実家は、おじいさんが全財産をなげうって、鳥取の河川敷を改修するとかというよいことをすることが好きだったようでして、男の子がなくて、父上がご養子で入ってきた頃は財産はすでになかった。 安田先生のお父さんに当たる方は、男のお子さんが二人できた後、不幸にして家に帰されるということになって、おじいさんが亡くなった後、お母さんがこの落ちぶれた家を出なければならないような羽目になって、看護婦さんあるいは助産師さんをして、子供さんを養わなければならないというような貧乏な生活の中でお子さんを育てようとして早く亡くなられた。
そういうことがあって安田先生は、本当は長男として、家を復興する願いを親戚一同からかけられていたそうですけれども、たまたま宗教心、菩提心にもよおされて、真宗大谷派に因縁が深くなって、一代、聞法に命を投げられた。
その中心問題は、ご存知のように唯識の解明です。しかも、護法の唯識、曽我先生から与えられた『了別と自証』の問題を一代かかって、えんえんと尽きることなく考えていかれた。何故唯識かという問題についてはよくわからないところがありますが、先生自身にこれを明らかにすることが、自分が持った思想課題の運命であるといいますか、そんなことがあったのでしょう。非常に情熱的に一代唯識論を解明していかれました。結核に倒れて
それと、若くして母上を失っておられて、そんなことは先生自身は語ったことはなかったのですが、奥様が私におっしゃって下さった逸話があります。一九六七(昭和四十二)年に、これは私は忘れもしないのですが、ちょうど私どもが結婚をした年なので、忘れられない。結婚式の司婚をお願いに行くと、先生は、いまだかつて司婚などをしたことがない、嫌だとおっしゃるのを、どうか引き受けてほしいと頼んで、後にはたから聞いたところによると、先生は司婚というのはどうやってやるのだと言って、習っていたそうです。だから、先生の心の中では、あいつのことだから、しようがない、やってやろうと思っておられたらしいのです。
私どもは四月に結婚する予定だったのですが、先生は二月に北陸に講義に行かれて、寒い中を風邪を引いておられるのをおして連続講義で会座を三ヶ所ほど回られた。北陸あたりの大きなお寺には、書院の外に御殿というのがあって、法主が来られた時だけ通す別棟がありまして、その別棟の中は昔のままですから、冷え冷えとして冷蔵庫みたいなものです。そこに炭の手あぶりを置いてあたるような形でしかなかった。おそらく、昭和四十年代の初めというと、いくらか石油ストーブみたいなものは入るようになったかも知れませんが、とにかく寒い。先生は、自分が教えた学生が帰ってそこの住職になっていて、先生を招待するという場合は出向かれたわけです。風邪を引いている中で講義をされて高熱が出ていても休まれない。
京都へ帰って倒れられた。あんまりひどい咳をするからというので、医者へ行くのは嫌だと言うのを、奥さんが医者に来ていただき無理矢理に診察をしていただいたら、これはちょっとおかしい、すぐ入院せよということで、先生の縁の深かった富田病院というのが近所にありまして、院長の別宅で昔、安田先生が相応学舎の講義をしておられたことがあったそうで、そういう因縁でその病院に強制入院させて診たところ結核だと。老人性結核だということで、絶対安静を命じられたそうです。
しかし、先生は頑として絶対安静を受け入れないで、見舞客には絶対安静だそうだと言いながら、看護婦がいないすきを見ては本を読んでいるというようなことだったそうです。そんなことで、富田病院では駄目だということで、京大の結核研究所の所長さんが金子先生の門下生であるという仏法の因縁があって、京大病院の結核病棟に入院された。富田病院では個室だったので自由勝手だったのですが、今度は大部屋ですので他に患者がいるものですから、勝手に電気をつけることが許されない。夜は真っ暗闇になるということで、少し安静を取られるようになった。
本当に頑固な先生で、よくこんなに頑固にできるなあというほど頑固な一面があった。その頑固な先生と同じ部屋に女性の患者がおられたそうですが、その患者が長い入院生活の中で亡くなっていかれたらしいのです。そうしたら先生は退院されてから、奥様に何も言わずに、その女性患者のお宅に黙って弔問に出向かれたらしい。一周忌にも出向かれたらしい。
向こうでは変な顔をしたそうです。病院で何かあったのではないかみたいな顔をしたそうですけれども、先生はそうではない。奥様が言っておられたけれども、母親が若くして死んでいったということがあって、その女性が結核になったということと、家族関係がどうだったのかわからないけれども、とにかく病棟に入っているのに一人として家族が見舞いに来なかった。隔離病棟ですから、見舞客が嫌がるのです。結核が移るのが嫌ですから、あまり見舞いに行かない。そういうこともあったのでしょうけれども、家族が、ご主人も子供も誰も見舞いに来ない。そういう中で、結核で亡くなっていかれたその女性に対する哀れみといいますか、そういう思いが先生に強かったのではないかと、奥様は私にこっそりと話して下さいました。頑固さとやさしさ
そういう一面が先生にあって、表は頑固で絶対に人の言うことを聞かない。本当に頑固で七十歳過ぎてから、入れ歯が壊れて、歯がなくなって、空気が抜けてしまって喋ることがよくわからない。それで弟子がどうか歯医者に行って下さいと言ってお金をあげると本を買ってしまう。曽我先生のところに年賀に行った時に、「安田君、君、何を言っとるかわからんから歯医者に行きたまえ」と言われたが、帰って来た後、私に向かって、「いくら曽我先生が言ったって、医者に行くわけにはいかんよなあ、君」と言うのです。私は返事のしようがなかったのです。
そういう頑固な一面がおありだったのですが、隠された一面に先生のやさしさというか、哀れな存在に対する同情の念、哀れみの念の非常に強いところがおありだったということを知らされたわけです。そのことは、単にかわいそうな人に対する同情心というよりも、先生の人間存在に対する憶念の情というものが、やはり親鸞教学に出遇わざるを得ないような因縁を持っていたということでしょう。
禅宗の強さといいますか、先生の表は一面禅宗の居士のような強さがあって、先生は社交が嫌いで、社交的な付き合いを一切なされない。先生を利用しようとして、宗政家やらが寄って来るのを絶対に受け付けない。社交的儀礼というものを一生なされなかった。普通ならちょっとは折れるところを絶対折れない。菩提心に立ってしか付き合わないという非常に強い一面のある方だったのですが、裏に先生には、弱い優しい面があったということを知らされました。
キリスト教の殉教のことに触れましたけれども、イエスという人に対する先生の情念という面でも、イエスが信念のために十字架で死んでいったということに対する思い入れが、普通の仏教者が持つキリスト教に対する憎悪のような思いとはまったく異質な、人間の苦悩に対する痛みのようなものが先生にはあったのではないか。どうもそのことが先生をして、単なる教学者を許さない。教義学というものは、どうも思想というよりは、言葉で防衛的に、自己保身的に体系を作り上げるようなところがありますから、そういうものを絶対許さないところがあって、教義学者に対しては、もう絶対に許さないような言い方をなさっておられました。人間として許せないというような言い方をなさった。何であのように強く言われるのかというと、単にあいつは菩提心がないという言い方ではなくて、教義学者というものが許せないというのは、人間のナイーブな、本当に人間が人間でありたいというものをどこかで殺していくようなものを、先生は一代の求道の中で何回か目にしたのではないかと思います。ご自身もそれでひどい目に遭われたことも、人生の中でおありだった。
単なる教義学を超えて、仏教学というものは人間学だという言い方をなさっていました。人間が人間を学ぶ、本当に人間を学んでいく形としての仏教学だ。そういうことをおっしゃっていたのは、教義学であるよりも、人間学であれという先生の祈りのようなものがあったのではないかということが思われます。(本田弘之『親鸞教学 曽我量深から安田理深へ(法蔵館)』)
【補記】
易往にして無人
近角常観
『易往而無人(いおうにむにん)』とは御承知の様に、大無量寿経にあって、一応の意味は分り易いお言葉である。即ち弥陀の浄土には往き易くして、しかも実際としては往く人が少いとの意味である。しかし一寸考えると、往き易ければ多い筈なのに、それが少いとのことだから、意味が甚だとりにくいのである。
併し私はこの頃もこの言葉を味うのに、親鸞聖人のこれの解釈を伺うと、いかにも意味深いお言葉と思うので、少しこれについて述べたいと思うのであるが・・・・・。 即ちこの言葉には、聖人自らこれが解釈をせられたものがあって、その直きゝのお示しで頂くと、それがあきらかにさせて頂けるのである。
全体この一句だけでなく、大経下巻にはこの前後に若干の言葉があって、聖人はこの一連の言葉を深く味わわれたものと見え、聖人の名号なり、肖像なりの上に、常にその一つにこの文をお書きになっている。それは、或は十八願文とか、其仏本願力の文とか、それらがきまってお挙げになっている中に、いつもこの文がまた決ってお引きになっているのである。それは彼の名高い文
必ず超絶して、去りて安養国に往生することを得、横に五悪趣を截(き)り、悪趣自然に閉ず。道にのぼるに窮極なし。往き易くして人無し。其国逆違せず、自然の牽(ひ)くところなり。
で、これを深く頂いて行けば、信仰問題として実に極りのない味わいがある。そこで、この文全体について述べようと思う。然しまず中心とする、易往而無人から申して行こうと思うのである。聖人の易往而無人釈
尊号真像銘文にその解釈があるが、まず今の一句だけを拝読すれば、
易往而無人というのは、易往とはゆきやすしとなり―――
まるで子供に言うように、御親切になされてある
―――本願力に乗ずれば、本願の実報土にむまるること、うたがいなければ、ゆきやすしとなり。
極楽往生とむつかしきことに言うが、極楽に往くはむつかしいことではない。然し若い人々には、極楽に往くとは何うか、という疑いが生じ、その極楽とは何処に在るか、どうして往くのか、等と考えると甚だたやすく了解されぬことになって、易いと云われても、そう思えなくなるのであるが、―――
今ここにある様に「本願力に乗ずれば、本願の実報土に生るること疑いなければ、往き易しとなり」――-私共、ここは、浄土とは如何、往生とは如何の詮索のことでない。仏の恵みの本願力で往かせて貰う故に、往くことは易いのである。東京に居て西洋の地理や方角を確かめて西洋に行くのなら易くはないけれど、船に乗れば船の力でひとりでに往かせられてしまうと同じである。更に適切に言えば、ここは往生極楽の筋道などを詮索することで往けることではなくて、仏の恵み、本願力に疑いがなくなれば、往生はひとりでに定まるのである。
なおもっと云えば、浄土門はもとより往生浄土が肝腎である。往生浄土を骨子とする教えであるけれども、安心のしどころは、仏の恵み、お慈悲ということが明かになれば往生はおのずから疑いないことになってしまうのである。仏の恵みのさえ疑いが無くなれば、自然にその本願力に牽かれて、ひとりでに救われてしまうから實に往き易いのである。 それは往生浄土といっても、明らかに目の前に仏の姿を見るようになり、死後の世界が現前するようになるとならば、それは容易なことではない。彼の源信僧都などは日本において往生浄土を著しく言われた人で、先日博物館に出ていた同僧都の筆になるという、高野山の来迎仏絵図の如き私も拝見したが、実に目も鮮やかなまのあたり浄土の光景に接する様なものであった。そこで往生浄土と云えば、まず一般に、そのようにこの世ながら浄土の光景に面接する様な、清らかな思いに入ることのように思い勝ちである。
ところが親鸞聖人は、往生はそのようなことでは仰せられていない。仏の願力に救われるのが往生浄土である。願力に救われるのだから、本願の実報土に往生することに疑いが無いから、往き易いと仰せられているのである。さて無人の方はどうかというに、
無人というは、ひとなしという。ひとなしというは、真実信心の人はありがたきゆえに、實報土にうまるることまれなりとなり。
一見矛盾のようであるが、かく本願力の故に浄土には往き易いが、その本願力を信ずる真の信仰を得ることが甚だ難しいと仰せられているのである。――マア忽ちにしてえらい難題がきた。今いう様に、浄土には甚だ往き易い、願力の船に乗る故に。けれども聞きなれた人は「はたして参れるか、まいれまいか」と心配し、又青年は「はたして未来というものがありや否や」かく疑ってくれば、甚だむつかしいことになるが、そういう話ではない。仏願力に夜が明ければひとりでに往かせられるから、往くことは至って易い。それは西洋の里程を調べて行くのなら行き難いが、船に乗れば自から行かせて貰えるのである。それなら残らずみんなが往けるかというに、「真実信心の人はありがたいゆえに、実報土に生るる人稀れなりとなり」この信ずる一段になると決して易いとはない。アマ易い易いといわれていて、俄に入口でむつかしくされてしまった形で、今までの易かったのが詮ない有様であるが、聖人はかく「真実信心を得る者稀れなり」と、いよいよ往く者に至っては甚だ乏しいと言われているのである。
「日出でて夜あくるものなり」
さて聖人の教行信証の化身土巻に、
大信心海は甚だもって入り難し、仏力より発起するが故に、真実の楽邦甚だもって行き易し、願力によって即ち生ずるが故に。
大信心海には甚だ入りがたい、仏力によるのであって、自分の力では如何にしても信心は起らぬ。―――
こう云うと益々信心がむつかしいものにしてしまうようだけれど、すでに分って居られる人には、その分った自分の経験で味わって頂き、又分らぬ人はいよいよむつかしく得がたいと思われるかもしれないが、その得にくいのは、我々が自分の力で起こそうとするから得にくいのである。「仏力より発起するが故に」で、仏よりいえば、仏の力が加われば信心は直ちに得られるのである。ここはきわどい処である。他力故、他の仏の力さえ加わり来れば、信心はむつかしいことはない。他の仏の力さえ届いて下されば、その届いて下さった時が、もう信心なのである。
―――そこで大信海には容易に入り難い、それはこのように仏力によって発起するのであって、仏力をこうむらねば開発することはないのである故に。言いかえると絶対に私ごとではいかぬのである。
口伝鈔に、或時聖人弟子に対して仰せられたには、
つねにひとのしるところ、夜あけて日輪は出ずや、日輪いでて夜あくるや。
時々聖人はこうした判じ物のような問いを出し、聞き慣れた者の心を刺戟するようなことを仰せられてある、これがいつも聖人の説法の口調であられたように拝察されるのである。そこで弟子が何気なく、夜が明けて日輪が出ますとお答え申し上げると、
上人のたまわく、しからざるなり。日出でてまさに夜あくるものなり。
聞いてみればその通りである。信仰を得ることのむつかしいというのは、我々の心に信心の夜が明けると、仏日の日輪は拝まれるのだと思うからであるが、信心の夜が明けるのは仏の力、仏日の日光が我々の心に射しこんで来て下されるから夜が明けるのである。即ち我々の無明黒闇をお見捨てない仏心が、無明黒闇の我々の心にはじめて届いて下された時が信心ゆえ、それを云うためにわざわざこういう問いを起こされてお示し下されておるのである。
ところが、こういう風に聞かれると、それは夜があけて日が出ると、一寸答えたくなると同様に、大抵は、「この信心さえ起せたら」「もう少し喜べたら」「有難くなったら」と、大抵が心の夜が明けさえすれば、仏日の日光は拝まれるという思惑を持っているのである。それはどんなに闇を明るくしようと思っても、闇が闇を明るくすることは出来ない。たまたまローソクをつけても、その日は勿ち消えてしまうと同様に、我々が主観において、或は喜ぶのだとか、念仏称えるのだとか、または仏の恵みを心に描いてなだらかに暮すのであるとか、そういうことを何程くりかえしても皆ひとときで、勿ち皆消失してしまうのである。
いよいよ本当に夜が明け渡るのに、日輪が出れば夜は全く明けはなれる。日輪が出るとどんな闇も、忽ち一度に明るくされてしまうのである。このことは執持抄にも云われている。そこでこのように自分で起こすことの出来る信心で無いから、信心は全く仏力の現われに外ならぬのである。親よりの伝言を聞かされる時
先日、ある信心得ようと苦しんで居る人にこの話をしたら「それではその日輪はいつ出ますか」と泣いて訴えた人があった。「こちらから努めて得られる信心なら、如何程でも苦心しようが、先方から来ねば分らぬのなら、しようがなくて全く困る。それならその日輪はいつ来ますか」と歎き悲しんだ人があった。
そこでそういう方のためには、その夜が明けるように、その日輪をこちらからよく言うて聞かしてあげなくてはならぬ。即ちそれが「その名号を聞く」ということで、そこになるとその日輪をこちらからよく取り次いで、お聞かせするということが一番肝要になってくるのである。
それは故郷の親を皆様が東京に居て、親はかくかく自分の事を思うていて下さると、何程皆様が想像で思われても、それは結局想像で、そう自分の心に絵をかいて思うて居るだけのものだから、そういうものなら忽ちあと戻りがし消え去ってしまうのである。ところが一枚の葉書、電報、或は故郷から来る人に託しての一言の伝言にしても、親はかくかく思うているから、直き直き子供に会って伝えてくれ、とあったなら、それを聞かされた時が、はじめて親の思召しを聞かされた一念で、「如何にも親の思召しは分りました」と、一辺に親の思召しの程がうけとれるのである。故に信仰はこちらから仏のお心を想像し、考察して喜んだり、有難く思うことはない。面のあたり親の心のありのままを言うて聞かされ、取り次がれるが故に、それを聞かされると「その名号を聞きて信心歓喜せん」で、云うて聞かされるから分かるのである。 故に、他力においては、言うて聞かされる恵みの御趣意を聞くということが、最も肝腎となっているのである。ところが今日ではそれが言葉慣れして、聞くといっても何か事の筋道、講釈でも聞くことのようになっているのであるが、そうではない。かく苦悩の旧里に迷うて居るのに対し親よりやるせない憐愍を加えて下さる、その親よりの直き直きの勅命を聞くのである。
故に他力の教は、この苦悩に夜のあけようのない人生にとって、極めて著しいことになってくるのである。故に平素、本願名号といわれてもさほどにも思うていないけれども、この様に著しいことが人生に起ってくる、その根本の親心が本願名号ということで、これを外から聞かされるとか、伝えられることがなければ信心は起らぬ。これを聞かされるから、初めて先方のお心の程が分り、徹し、即ち真心徹到のところに信心があらわれるのである。
そこで、このように自身で起こされる信心でないから「大信心海には甚だもって入り難し」、「仏力より発起するが故に」で、言って下さるところの思召しを聞くこと一つが肝腎となってくるのである。故に仏力を加えられなければとても起りようのない信心であるが、さて一度それを聞かせられ、加えられれば「願力によって生ず」るのであるから「真実の楽邦には甚だもって往き易い」と、斯ういうことになるのである。 (未完)(『慈光』第三十巻第四号)
昭和53年4月15日発行【店主後記】
私はこの頃思います。論理というものはつまらないということです。論理ではわからないことがあるし、論理では解決できないことがあるということです。もちろん論理で成り立たなければならないことはあります。論理のないところに民主主義はない。しかし我々の社会は行き詰まっているではないですか。我々の論理だけではどうにも行き詰まっているではないですか。そこに言葉は現れて来なければならない。言葉とは論理されて生まれる言葉ではなく、論理される以前の言葉です。これを仏教では法性といい、現代の言葉に置き換えれは真理であり実存です。善導大師は、『ただ仏語を取れ、論の誘惑に従うな』と厳しく諭したそうです。今回、「学びのこころ」に安田理深を選んだのは、当然のことながら安田理深の人間と思想に強く惹かれたからです。先に本田弘之さんの『親鸞教学 曽我量深から安田理深へ』の一部を引用させていただきました。この本は、清澤満之以下近代の親鸞教学の流れがよくわかるし、安田理深の言葉に触れる第一歩としても大変良い本です。但し、新刊では買えないことと古本では高価なことが残念ですが、私はこの本を読んで一遍に安田理深が好きになりました。安田理深の言葉には思想があふれています。どの言葉をとっても安田理深という人間があふれています。安田理深は思想家でもあるけれど一方で大乗仏教の学徒ですから、探求の中心には唯識があって、それは仏教哲学のなかでも特に根源的で難解な思想であるわけです。そこに分け入っていかなければ本当に安田理深から仏教を学ぶことにはならない。それは簡単なことではないですが、それはそれとして、安田理深自らがこう述べています。
『同朋運動(真宗教団の教化運動)でも、仏教の要領を記録した教科書とか、そういうものからは何も生まれてこんでしょう、先ず第一に仏教の学問というものがあるけれど、しかしながらその学問には初めがある、それは言葉に対する感動が学問をさせている、感動を離れたら教理だ、教理の研究からは何も出てこんでしょう。二、三年勉強したような教養でこの現代の厳しい資本主義体制が破れるはずがないでしょう、いったい資本主義体制のなかで生きれば人間であることはやめんならん』(講演録『浄土の教学』)
安田理深の言葉は、このように時に強くラジカルです。私は久しぶりに聞きました、『この現代の厳しい資本主義体制が破れるはずがないでしょう』という言説を。私たちはもう一度考えないといけない、あきらめてはいけないということです。安田理深のいう「資本主義体制を破る」とはどういうことか。人間が国を求めて流転している、本当の帰るべき故郷を忘れて流転している、それは遙か仏陀の時代から、そして現代とは如何にです。人間が本当の故郷に帰る最後のチャンスではないのか。
安田理深は死んでいま形はないけれど「存在の故郷」という言葉を私たちの生きているここに差し出しているのです。仏教の経典は多くは、如是我聞という言葉から始まるそうです。私は、そんなふうに安田理深の言葉を受け取っています。