大川周明
Okawa Shumei
- 作家名
- 大川周明おおかわ しゅうめい
- 作品名
- 詩書
- 作品詳細
- >掛け軸 紙本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法32.3×141.2
全体寸法46.5(胴幅)×208㎝ - 註釈
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山僧活計茶三畝 漁夫生涯竹一竿 (高僧伝)
山僧は、三畝の茶畑があれば暮らせる。漁夫は生涯、竹一竿あればよい。後記
今回、大川周明をテーマにしたことで、先ず大塚健洋の『大川周明 ある復古主義者の思想』(中公新書)を読み、次に大川周明の『日本二千六百年史』(第一書房)と『米英東亜侵略史』(第一書房)を読みました。『日本二千六百年史』は、最近、新漢字使いになった復刻版が出ています。『米英東亜侵略史』は、大川周明が開戦直後の昭和16年12月14日より同月25日まで連続12日間NHKラジオ放送で述べたことに、「極めて僅少の補訂を加えたるもの」(『米英東亜侵略史』序)で、翌昭和17年1月に刊行されたものです。これは、原本を国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができます。これも最近、佐藤優さんが、『日米開戦の真実』 (小学館文庫) と題してその全文と解説を書かれたものが出版されましたが、旧漢字が多少読みづらくても、原本で読んだ方が、その時代の手触りのようなものをより感じられるのではないかと思います。次に、竹内好の『大川周明のアジア研究』と『日本のアジア主義』(竹内好セレクション 2)、中島岳志さんの『「東洋の理想」の行方 大川周明と井筒俊彦』(井筒俊彦 言語の根源と哲学の発生)に眼を通して、最後に大川周明の『安楽の門』を読みました。これは当たり前のことですが、大川周明を知りたければ大川周明を読まなくてはならないわけです。また、批評を読むにしても、いわゆる政治学者とか思想史家といわれる人の論文を読むにしても、その人自身の主体的な問題として書かれたものでなければ読む価値はありません。私は今回、戦前の政治思想というものがどのように語られているのかと思い、丸山眞男の『超国家主義の論理と心理』(丸山眞男第三巻)も一読しました。私のような者が、この一論文を読んだだけで、戦後を代表する大学者を批判することなど大それたことだとわかっていますが、私は、超国家主義の思想構造乃至心理的基盤の分析をして、天皇制の本質や日本の国家主義を説明してくれても、少しも面白くないし、少しも感動しないのです。丸山眞男は次のように書いています。
《中国や比律賓(フィリピン)での日本軍の暴虐な振舞いについても、その責任の所在はともかく、直接の下手人は一般兵隊であったという痛ましい事実から目を覆ってはならなぬ。国内では「卑しい」人民であり、営内では二等兵でも、一たび外地に赴けば、皇軍として究極的価値と連なる事によって限りなき優越的地位に立つ。》(『超国家主義の論理と心理』)
丸山眞男が「下手人」と書いたものは、丸山の考える「大衆」の像です。つまり丸山は、自分は「大衆」ではないからそんな暴虐なことはしません。と言っているわけです。では、あなたは大衆ではないのかということです。否や、あなたも一人の丸山眞男であるし、一人の大衆なんです。人間はその両方の場に足を又がして立っているのす。つまり、私もその下手人と同じことをしたかもしれない、という場所に思想家は立たなくてはならないのであって、痛ましい事実から目を覆ってはならなぬ。という場所からは、けっして生きた思想は生まれてこないのです。私が、「その人自身の主体的な問題として書かれたもの」と書いたことはそういう意味です。話が横に逸れていきますからほどほどにしますが、そもそも大衆を「下手人」と書くような、言葉への感度の低い人の思想は最初っから信頼できないと思ってしまうわけです。
さて、大川周明という人は戦前戦後を通して信念のぶれなかった人です。また、前述の『米英東亜侵略史』のなかで述べられているように、大正14年に、アメリカとは「相戦はねばならぬ運命にある。日本よ!一年の後か、十年の後か、三十年の後か、そは唯天のみ知る。いつ何時、天は汝を喚んで戦いを命ずるかも知れぬ。寸時も油断なく用意せよ。」と日本の運命を的確に予見していた人です。大川周明が、極東国際軍事裁判において、民間人としてただ一人、A級戦犯として訴追されたのは、この『米英東亜侵略史』に依るところが大きいと思いますが、これは、戦意高揚のためのプロパガンダではなく、通読してみればまっとうな近代史講義録です。私は、大川周明ほど優れた世界認識と歴史観を持った人が、日本が本当にアメリカに勝利すると考えていたとは思えません。また、彼が思っていようがいまいが日本はアメリカと戦わなければならなかったわけです。私は、その時代を生きていませんから、私が生きていたならと想像するしかありませんが、連戦連勝を伝えるラジオ放送に手に汗を握って聞き入ったに違いないし、自分の父親や兄弟が戦争に取られていれば、神にすがってでも勝ってくれと念じたに違いありません。大川周明は、『米英東亜侵略史』の序文冒頭において、「昭和十六年十二月八日は、世界史に於て永遠に記憶さられるべき吉日である。」と記しています。私は、この思想家の言葉になんの不服もありません。なぜなら、私も、アメリカ太平洋艦隊撃滅の知らせに欣喜雀躍したに違いないし、不幸にも日中戦争から終戦を経た人間の観念的な仕事は、すべては一度滅びるからです。
私は、大川周明の歴史観は、誰もが認めるように多分に岡倉天心の歴史観を踏襲したものであるし、天心を感じるように、大川周明を感じればよいと思います。私は、河上徹太郎が『日本のアウトサイダー』で述べたことが、岡倉天心をもっとも深く思想的に洞察したものであると思うので、その一部をここに引用しこの後記を終わります。然し天心の思想や政治性に関する今日的解釈が保守的だということは、敢て弁明する必要はない。何故なら彼は思想家でも野心家でもないからである。つまりそこに彼の人間の大切な部分は潜んではいない。例えば彼は今日の分類によれば美術評論家に属するのだろうが、彼の美術史縞に大した発見がなくてもそれは重大なことではない。大体彼は美を発見しようとも創造しよともしなかった。つまり美は彼にとって既にあるものなのである。これは彼が古美術に対してもいえる態度である。彼はただこれを実現しようとした。しかも壮大奔放な形においてである。これはロマンティシズムの定義の本質にかなう憧れであり、その意味で私は彼を明治の大ロマンチストと呼ぶのである。
大体明治2、30年代の思潮を、その中の文明開化を官とし、自由民権を野とする対立に分けて、如何なる実益があるだろうか?それに実情は、官というのは維新以来の藩閥争いであり、野というのは没落者・疎外者・純理的進歩論者の混淆であり、しかもその実力的指導者は旧幕系の操觚者の系統であって、思想的にこれを色分けする本質的なものは先ずない。即ち官に功利的な文明主義があり、野に理想的な文化主義があるといった秩序立ったものではなかった。それよりも、この澎湃とした実利的近代国家形成の機運の中に、およそこの実利性を無視したロマンティシズムが生まれたのは、その余裕といおうか、絢爛を求める必然的な憧れといおうか、人間解放への本能といおうか、とにかく注目に価する現象なのである。このロマン主義運動の代表は、文壇における透谷・藤村の『文学界』の運動であるが、その藤村がいっている。日本民族の歴史で、ロマンチックといふべき時代は凡そ四つある。その最も早いのは、平安朝の初期、第二は、足利時代、第三は、徳川氏の中期、第四は、明治年代である。試みに、その代表的な人物を擧げれば、第一期には、歌人在原業平、第二期には、畫僧雪舟、第三期には、國學者本居宣長、第四期の明治年代には、情熱の人岡倉天心が最も大きなロマンチックな素質を備へてゐた人であったと言へると思ふ。
藤村のこの見方は、見方自体が又ロマンティックであり、一寸意表に出た人選のようで、それぞれ個性的であるがために人を納得させるのである。これらのロマンティストは、藤村のいうように一世を代表していながら、それでいて決してその時代の傀儡ではない。即ちその時代思潮の標本みたいな類型ではない。時代の中にいてそれに創られた人物であるよりも、その外にあって、自分の声でその精神を大きく歌っているような存在である。のみならず、時に時代の流れの自然的な歪曲を、自分一人の手で受けとめて、これを正しい方へ匡そうとする気魄も見える。つまり私のいうアウトサイダーとはそのような存在であって、その故に私は天心をその中に数えたいのである。
(『日本のアウトサイダー・岡倉天心』河上徹太郎)
補記
大川周明を読むのであれば、『安楽の門』を読むのが一番よいと思います。
大川周明の人柄がよく現れていますし、ここに書かれる宗教観は、普遍的なものです。そして何より、大川周明の思想は信頼に値する。そう思える本です。(店主記)
大川周明略年譜
明治19年(1886)
12月6日、山形県飽海郡西荒瀬村(現在の酒田市)に生まれた。
明治34年(1901)
マトン神父にフランス語を学び、宗教に関心を抱き始める。
明治36年(1903)
11月、『週刊平民新聞』を購読し、社会主義の影響を受ける。
明治37年(1904)
2月、日露戦争起こる。3月、荘内中学卒業。
明治39年(1906)
10月、栗野事件で五高生を扇動する。
明治40年(1907)
7月、第五高等学校卒業。年末から翌年4月まで、ノイローゼ・肺結核治療のため伊豆大島にて静養。
明治43年(1910) 7月、日本教会に入会する。
明治44年(1911)
7月、東京帝国大学文科大学卒業(宗教学専攻)。
明治45年(1912)
春頃、『列聖伝』編纂のため、日本史研究を始める。9月、乃木大将殉死。
日本人としてのアイデンティティーを自覚する。
大正2年(1913)
夏、ヘンリー・コットンの『新インド』を読み、イギリスの植民地統治に憤慨。
アジア問題に関心を向け始める。
大正3年(1914)
2月、『宗教の本質』(翻訳)。5月、父周賢死去。7月、第一次世界大戦始まる。
11月、『エミール』(翻訳)。
大正4年(1915)
秋頃、インド人革命家グプタと出会う。11月、インド人主催御大典祝賀会。
この年、全亜細亜会を結成し代表となる。
大正7年(1918)
5月、満鉄東亜経済調査局に嘱託として採用。8月、米騒動起こる。
10月、老壮会結成。
大正8年(1919)
2月、人種的差別撤廃期成会運動の実行委員となる。8月、猶存社結成。8月23日、上海に北一輝を訪問。9月、満鉄職員となり、11月、東亜経済調査局編輯課長となる。
この年2月から約1年間、リシャール夫妻と同居。
大正9年(1920)
4月、拓殖大学教授を兼任する。12月、日印教会から退会。宮中某重大事件起こる。
この年、初めて陸軍に接触する。
大正10年(1921)
8月、『第十一時』(翻訳)。10月、『宗教原理講話』、『日本文明史』。10月から12月まで、蘭領インドネシア視察。
大正11年(1922)
3月、魂の会結成。春頃、社会教育研究所同人となる。7月、『復興亜細亜の諸問題』。
大正12年(1923)
2月、ヨッフェ来日。4月、東亜経済調査局調査課長となる。9月、関東大震災起こる。
大正13年(1924)
5月、『永遠の知慧』(翻訳)。アメリカ協議で排日植民法成立する。『復興印度の精神的根拠』。
大正14年(1925)
2月、行地社創立。日ソ国交回復。2月16日、広瀬兼子と結婚する。
4月、『月刊日本』創刊。大学寮創立。安田共済事件で、北一輝と決別する。10月、『亜細亜・欧羅巴・日本』。
大正15年 昭和元年(1926)
2月、『日本及日本人の道』。5月、『人格的生活の原則』。8月、「特許植民会社制度の研究」で法学博士の学位を受ける。
昭和2年(1927)
2月、『特許植民会社制度研究』。『清河八郎』。4月、東亜経済調査局主事となる。
5月、『日本精神研究』。6月、『中庸新註』。
昭和3年(1928)
6月、張作霖爆事件起こる。9月、張学良と会見。
昭和4年(1929)
7月、財団法人東亜経済調査理事長となる。11月、『国史概論』。
昭和5年(1930)
1月、ロンドン軍縮会議開催。『日本的言行』。
昭和6年(1931)
3月、橋本欣五郎らとクーデターを企てる。9月、満州事変起こる。『国史読本』。
10月、再度クーデターを企てるが、未遂。
昭和7年(1931)
2月、神武会を結成し合法的大衆運動に乗り出す。3月、満州国建国。5月、 五・一五事件起こる。6月15日、逮捕される。
昭和8年(1933)
3月、国際連盟脱退。
昭和9年(1934)
2月3日、東京地方裁判所判決、懲役15年。11月9日、東京控訴院判決、禁錮7年。
11月12日、保釈される。
昭和10年(1935)
2月、神武会解散。6月、『佐藤信淵集』。10月24日、大審院宣告、禁錮5年。
昭和11年(1936)
2月、二・二六事件起こる。6月16日、下獄。
昭和12年(1937)
7月、蘆溝橋事件起こる。8月、『日本文明概説』(『国史読本』の中国語訳)。
北一輝死刑。10月13日、仮出所許される。
昭和13年(1938)
4月、法政大学大陸部長となる。5月、東亜経済調査局付属研究所(大川塾)を開設し、所長となる。この年から、日中戦争の終結をめざして、対米工作を行う。
昭和14年(1939)
7月、『日本二千六百年史』。ベストセラーとなるが、秋頃から不敬な記述があるとして問題となる。8月、アメリカ合衆国ネバダ州にPan Pacific Trading and Navigation Company(汎太平洋通商航海会社)設立。
昭和15年(1940)
3月、南京に汪兆銘政府成立。同月、『日本二千六百年史』問題が国会で取り上げられる。 9月、北部仏印進駐。日独伊三国同盟締結。10月4日、汎太平洋通商航海会社が60万バーレルの対日石油輸出許可を得る。11月、紀元二千六百年式典挙行される。
昭和16年(1941)
1月、『亜細亜建設者』。2月、汎太平洋通商航海会社が、アメリカ合衆国のThe Metal and Ore Corporation (メタル&オア社)とタングステン売買契約。3月、タングステン輸出促進のため、中国出張。ガソリンとタングステンのバーター契約成立せず。10月、『近世欧羅巴植民史』(1)。12月、太平洋戦争始まる。12月14日から25日まで、「米英東亜侵略史」と題してラジオ講演。この年、『日本二千六百年史』の中国語訳出版される。 昭和17年(1942)
1月、『米英東亜侵略史』。8月、『回教概論』。
昭和18年(1943)
8月、『大東亜秩序建設』。11月、大東亜会議開催。
昭和19年(1944)
5月、『佐藤雄能先生伝』。6月、『新亜細亜小論』。
9月、A History of Anglo-American Aggression in East Asia (『米英東亜侵略史』の英訳)。
昭和20年(1945)
4月、『新東洋精神』。8月、終戦。12月12日、A級線犯容疑で逮捕される。
昭和21年(1946)
5月3日、東京裁判第1回公判廷で東条英機の頭をたたき、精神障害のため入院。11月、日本国憲法発布。12月、母多代女死去。
昭和22年(1947)
3月、病状が快方に向かい、コーランの翻訳を始める。
昭和23年(1948)
12月24日、不起訴処分となり、30日、退院。
昭和25年(1950)
2月、『古蘭』(翻訳)。
昭和26年(1951)
10月、『安楽の門』。
昭和28年(1953)
農村再建をめざして、行脚を始める。
昭和32年(1957)
12月24日、神奈川県愛甲郡愛川町中津の自宅にて死去。大塚健洋の『大川周明 ある復古主義者の思想』(中公新書)より