中村祖順
Nakamura Sojun

 中村祖順 1
 中村祖順 2
 中村祖順 3 中村祖順 4
 中村祖順 5 中村祖順 6
作家名
中村祖順 なかむら そじゅん
作品名
不識
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 福富雪底識箱
本紙寸法56x32
全体寸法(胴幅)59.1x121.5cm
註釈

福富雪底 大正10年(1921)~平成18年(2006)

新潟県西蒲原郡潟東村に生まれる。法諱、宗漂。室号、似無愁庵。昭和10年、東京廣徳寺福富以清和尚について得度。昭和19年、大正大学卒業。昭和21年、九州久留米梅林僧堂に掛搭、東海玄照老師に参ずる。昭和37年、廣徳寺住職。昭和58年、大徳寺派管長に就任。

第二則達磨廓然

【本則】

。 擧。梁武帝問達磨大師。如何是聖諦第一義。磨云。廓然無聖。帝云。對朕者誰。磨云不識。帝不契。遂渡江至少林。面壁九年

[訓読]挙す。梁武帝達磨大師に問う。如何なるか是れ聖諦第一義。磨云く、廓然無聖。帝云く、朕に対する者は誰ぞ。磨云く不識。帝契わず。遂に江を渡りて少林に至り、面壁九年。

[和訳] 諸君、よく聞きなさい。梁の武帝が達磨大師に質問しました。 「どのような教えが仏法の最奥なのでしょうか」と。 達磨大師は答えました。 「すべてのこだわりを捨てて、たとえば尊いという分別さえ生じない心を得ることです」。 武帝は再び聞きました。 「悟りとは分別が生じないことをいうのなら、ここで今、わたしと相い対している貴方自身を、貴方はどのように説明するのですか。わたしは武帝であり、あなたは達磨大師ではありませんか」と。 達磨大師は答えました。 「ですから、そのような自己への執着がある限り、真実を識ることはできないのです」。武帝には達磨大師の教えが理解できませんた。ついに達磨大師は梁の国での化導をあきらめ、長江を渡って北へ歩を進め、その頃既に信仰の場となっていた嵩山少林寺に居を定めたのです。自らの教えを中国の人々が受け入れられる時が来て、更に、自らの法を伝えるべき器量の弟子が現れるまで、ひたすら坐禅を行じて待つことにしたのです。

[釈意] 仏道の最要は、凡聖、迷悟の分別がない心の確立であるとする達磨にとって、帝としての自分が、祖師としての達磨を見ているという立場を離れられない武帝の立場は妄執にほかならない。武帝が自分という存在を中心に置いてすべてを捉える限り、それは彼我の見であり、また相対に滞る分別というべきである。知解を離れて、王としての自分、祖師としての達磨という幻の器を捨ててみれば、自分も達磨もただ仏というしかない存在であったことに気づいたはずである。その意味で廓然無聖であり、不識である。さらに、嵩山での面壁九年の実践は、聖諦第一義の体現である。廓然無聖の語には、帝位にある武帝に対して、儒家の用語を元にして説いたとも考えられる。廓然大公(物事にこだわらず、公平なことをいう。聖人の心を学ぶ君子の心構えをいう)、大公無私(儒家がいう利己心がなく、公平で正しいこと)などが想起される。 宏智頌古の本則は、『碧巌録』第一則と比較して、かなり簡略である。宏智はこれですべて事足りると判断したのであろう。ことばが多くなれば、それだけことばに迷う者が出てくることを避けたともいえる。

(『宏智禅師頌古百則の研究(一)佐藤悦成編』より引用) ※底本・『大正大蔵経』四八巻所収『宏智禅師広録』巻二「長蘆覚和尚頌古拈古集」