福沢諭吉
Fukuzawa Yukichi
- 作家名
- 福沢諭吉ふくざわ ゆきち
- 作品名
- 戯去戯来自有真
- 作品詳細
- 掛け軸 紙本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法33×131.2
全体寸法49.6×196.5㎝ - 註釈
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《戯去戯来自有真》
戯れ去り戯れ来る 自ずから真あり意味は、以下、最晩年の心境を綴った『福翁百話』(七)「人間の安心」に言い尽くされる。
『福翁百話』
(七)「人間の安心」宇宙の間に我地球の存在するは大海に浮べる芥子(けし)の一粒(ひとつぶ)と云(い)うも中々おろかなり。吾々の名づけて人間と称する動物は、この芥子粒の上に生れ又死するものにして、生れてその生るゝ所以(ゆえん)を知らず、死してその死する所以を知らず、由(よつ)て来(きた)る所を知らず、去て往(ゆ)く所を知らず、五、六尺の身体僅(わずか)に百年の寿命も得難(えがた)し、塵(ちり)の如(ごと)く埃(ほこり)の如く、溜水(たまりみず)に浮沈する孑孑(ぼうふら)の如し。蜉蝣(ふゆう)は朝(あした)に生れて夕(ゆうべ)に死すと云うと雖(いえど)も、人間の寿命に較(くら)べて差したる相違にあらず。蚤(のみ)と蟻(あり)と丈(せい)くらべしても大象の眼(め)より見れば大小なく、一秒時の遅速を争うも百年の勘定の上には論ずるに足らず。左(さ)れば宇宙無辺の考を以(もつ)て独(ひと)り自(みず)から観(かん)ずれば、日月も小なり地球も微(び)なり。況(ま)して人間の如き、無智無力、見る影もなき蛆虫(うじむし)同様の小動物にして、石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、忽(たちま)ち消えて痕(あと)なきのみ。然(しか)るに彼の凡俗の俗世界に、貴賤貧富、栄枯盛衰などゝて、孜々(しし)経営して心身を労するその有様は、庭に塚築(つかつ)く蟻の群集が驟雨(しゆうう)の襲い来(きた)るを知らざるが如く、夏の青草(せいそう)に飜々(ほんぽん)たる〱(ばつた)が俄(にわか)に秋風(しゆうふう)の寒きに驚くが如く、可笑(おか)しくも又浅ましき次第なれども、既(すで)に世界に生れ出たる上は蛆虫ながらも相応の覚悟なきを得ず。即(すなわ)ちその覚悟とは何ぞや。人生本来戯(たわむれ)と知りながら、この一場の戯を戯とせずして恰(あたか)も真面目(まじめ)に勤め、貧苦を去て富楽に志し、同類の邪魔せずして自(みず)から安楽を求め、五十、七十の寿命も永きものと思うて、父母に事(つか)え夫婦相親(あいした)しみ、子孫の計を(はかりごと)為(な)し又戸外の公益を謀(はか)り、生涯一点の過失なからんことに心(こころ)掛(がく)るこそ蛆虫の本分なれ。否(い)な蛆虫の事に非ず、万物の霊として人間の独り誇る所のものなり。唯(ただ)戯と知りつゝ戯るれば心安くして戯の極端に走ることなきのみか、時に或(あるい)は俗界百戯(ひやくぎ)の中に雑居して独り戯れざるも亦(また)可なり。人間の安心法は凡(およ)そこの辺に在て大なる過な(あやまち)かるべし。