竹内栖鳳
takeuchi seihou

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竹内栖鳳6
作家名
竹内栖鳳 Takeuchi Seihou
作品名
小村雨餘
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 金襴裂 象牙軸 共箱 二重箱
東京美術倶楽部鑑定委員会鑑定書付き
作品寸法47.5×38.3㎝
全体寸法67.2×135.3㎝
註釈

竹内栖鳳は、明治33年の渡欧体験によって、西洋の絵画が精神の欠如した単なる写実主義ではなく、東洋と同じように写意に重点が置かれていることを感じます。それは、横山大観の「今日欧州美術に如何程の価値があると問う人があったならば、私は零と答えねばならぬ。・・今日の泰西美術はたしかに写実のみに走って居る。・・」(明治38年米国、欧州旅行帰国後の日本美術院歓迎会席上にて)という、東洋の精神性優位の主張とは考えを異にするものでした。栖鳳は、西洋のルネサンス期の絵画と日本の中世巨勢派の宗教画などはその筆法において共通する点が多々あったとしながら、その後、西洋が徹底した写実研究の上に今日があることに比して、日本はその中途において、狩野派や文人画などが隆盛をみるにしたがい、西洋のように〈もの〉の性質まで写し取るまで写生が発展することなく写意に重きを置き今日に至っていると考えました。栖鳳は帰国後、近代日本画の革新のためには、日本の伝統を生かしつつ、西洋の写実を多いに研究する必要を説き、それ以降、西洋美術の技法を取り入れ、「大獅子図」「ベニスの月」「田家喜雀」など、思い切った空気遠近法と余白を大胆に活用した写実的で気品薫る革新的な日本画を次々と発表します。西洋の絵画を知ることによって新たな日本画の創造へと踏み出した栖鳳は、次に、大正9年、10年と中国視察の旅をします。栖鳳の眼に映る光景は、若き頃学んだ狩野派の描く風景そのものでした。また、中国の画家たちが、今でも臨模によって過去の作家の心に近づくことを芸術の主眼としていることは、栖鳳にとって芸術上の大きな示唆となり、それは、墨の一点一線において自然を捉えるという東洋画の原点に立ち返ることでもありました。

この「小村雨餘」が描かれたのは、中国旅行後、大正末から昭和初頭と思われます。雨のあがった山里の風景が、美しい墨の調子によって静かにしっとりと描かれています。円山・四条派の伝統を最も正統に継承し、西洋と東洋の絵画の特質を見極め、その上で画家が描こうとしたものは、近代日本画のもう一方の雄、川合玉堂と同じように、日本の自然の移ろいを、自然の一瞬を、単なる風景描写ではなく、そこで暮らす人間、生きとし生けるすべての生命を内包するような自然の姿ではなかったのでしょうか。また、それが栖鳳にとっての「写意」であり、そのための「写生」であったのではないかと私は思います。