安永5年(1776)~天保14年(1843)
秋田藩士大和田祚胤の子。20歳で脱藩、江戸に出て備中松山藩士平田篤穏の養子となる。本居宣長の思想に感銘を受け、夢のなかで宣長の許しを得えたといって「宣長没後の門人」を自称。宣長学の立場から太宰春台の『弁道書』を批判する『呵妄書』を執筆。また、宣長の古道説を宗教的な復古神道に発展させ、日本は最もっとも優れた神の国であると主張した。荷田春満、賀茂真淵、本居宣長と並び「国学の四大人」と称される。
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