川喜田半泥子 Kawakita Handeishi
明治11年(1878)~昭和38年(1963)
伊勢の豪商川喜田久太夫家15代の長男として大阪市東区本町の仮寓で生まれる。本名、久太夫政令。幼名、善太郎。別号、泥仏堂主人、無茶法師、紺野浦二、鳴穂堂、莫迦耶慮、其飯、部田六郎など。生後6ヶ月に祖父を、続いてすぐに父を失い、18歳の母捻子は、半泥子を残し実家に返される。1歳で家督を相続した半泥子は、祖母政子の勧めにより、幼少より、南禅寺大徹老師のもとへ参禅する。明治32年(1899)、早稲田専門学校卒業。大正8年(1919)、百五銀行頭取となる。大正4年(1915)、津市大字垂水の千歳山に山荘を構える。大正14年(1925)、愛知県蒲郡の楽暁師長江寿泉の設計による両口倒焔式石炭窯を千歳山の茶席松濠庵の脇に作る。この頃より、本格的に作陶を始める。昭和9年(1934)、加藤唐九郎が訪れる。昭和11年(1936)、備前の金重陶陽を訪ねる。同年、加藤唐九郎とともに唐津の中里太郎右衛門を訪ね、21日間滞在する。その間、古唐津の窯跡調査を行う。昭和14年(1939)、金重陶陽、荒川豊蔵、三輪休雪の4人で『からひね会』を結成。昭和18年(1943)、『乾山考』(特製本65部)を刊行。昭和20年(1945)、千歳山荘は進駐軍に召し上げらたため、津市長谷山のふもとの広永に、12坪の住居を建て移り住む。昭和21年(1946)、千歳山窯を長谷山中腹に移し、広永陶苑を創設。昭和22年(1947)、初窯を焼いてから同33年までの10余年間、この広永窯で作陶に没頭する。昭和38年(1963)、老衰のため千歳山荘で死去。半泥子は、陶芸家としての活動のほか、昭和5年(1930)、財団法人石水会館を設立し、地域の教育、福祉活動に尽くし、また、数々の企業の要職、三重県議会議員、津市議会議員を務め、芸術、社会両面で、幅広い活躍をした。
東の魯山人、西の半泥子と称される。
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