谷崎潤一郎 Tanizaki Junichiro(Junkichirou)
明治19年(1886)~昭和40年(1965)
東京市日本橘区蠣殻町(日本橋人形町)に父倉五郎、母関の長男として生まれる。
生家は祖父久衛門の経営する谷崎活版所が盛況で裕福であったが、祖父の死後、事業を父倉五郎が継いで後、経営不振となり、家業の零落により進学は困難であったが、成績優秀なことと教師の助言、親戚の援助で、明治34年、東京府立第一中学校(現日比谷高校)に入学する。
明治35年、家計はいよいよ逼迫するが、教師の斡旋で精養軒の主人北村重昌の家に書生兼家庭教師として住み込み学業を続ける。明治41年、第一高等学校を経て、東京帝国大学国文科に入学。明治43年、小山内薫、和辻哲郎、大貫晶川らと第二次「新思潮」を創刊し、同誌に「刺青」を発表し注目され、永井荷風に絶賛される。明治44年、授業料未納のため大学を中途退学。大正4年、なじみの芸者、初子の妹の石川千代と結婚するが、千代の妹で15歳のせい子と同棲生活をはじめる。せい子は、葉山三千子の芸名で映画女優となり、「痴人の愛」のナオミのモデルとも言われる。大正8年、小田原に転居するが、その頃潤一郎の親友となっていた佐藤春夫が、千代夫人と恋仲になる。潤一郎は千代を春夫に譲ろうと約束するが途中で翻意したため、春夫は潤一郎と絶交する。昭和5年、潤一郎は妻千代と離婚し、千代は佐藤春夫と結婚、三名連名の挨拶状を友人知己に送る。(文学史上有名な「夫人譲渡事件」) この頃、「黒白」「卍」「蓼喰う虫」と、中期の代表作を立てつづけに発表する。昭和6年、文藝春秋勤務、古川丁未子と電撃結婚する。昭和8年、「春琴抄」「陰影礼賛」を発表。昭和9年、古川丁未子と離婚。翌10年、根津松子と結婚する。昭和22年、「細雪」で毎日出版文化賞受賞。昭和24年、文化勲章受賞。昭和31年、「鍵」を発表し、その大胆な性描写が、芸術か猥褻かの議論を呼ぶ。昭和38年、「瘋癲老人日記」で毎日芸術大賞受賞。昭和40年、腎不全から心不全を併発して神奈川県湯河原町、湘碧山房で死去。享年79歳。
私生活の激しい愛の遍歴を赤裸々に告白し、官能と耽美な小説世界を展開した。近代日本文学の巨匠。
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