山本空外 Yamamoto Kugai(Yamamoto Kuugai)
明治35年(1902)~平成13年(2001)
幼年より宗教心に目覚め、青年期に弁栄上人の浄土思想に出会い、原爆体験を契機として学究的思索と念仏三昧の宗教的思索を深め、プローティノス「一者(トヘン)」から、「阿弥陀仏と一者」へと独自の宗教思想を展開させ、世界平和実現のための「南無阿弥陀仏」の意味と、一人一人が『無二的人間』として生きることの大切さを提唱する。
広島市の真宗門徒の家に生まれる。本名幹夫。大正9年、広島県立広島第一中学校4年修了。同年、旧制松山高等学校文化乙類入学。同学2年の初め、人間存在の根本問題に悩み、山口県西蓮寺の弁栄上人高弟藤本浄本の指導を受ける。大正12年、同学を主席で卒業。同年、東京帝国大学文学部入学。大正15年、同学文学部哲学科を主席で卒業。昭和2年、旧制山形高等学校講師に就任。翌3年、同学教授。昭和4年、広島文理科大学創設に際し助教授に就任し倫理学を担当する。昭和4年4月より昭和6年8月まで文部省在外研究員として渡欧。主にハイデルベルク大学エルンスト・ホッフマン教授(Hoffmann, Ernst, 1880-1952)の下で哲学を学び、ヤスパース、ハイデッガー、フッサール、ベルグソンらと交流する。昭和10年、『哲学大系構成の二途 ― プローティーノス解釈試論』(東大哲学雑誌掲載)により文学博士号を受ける。また同誌付録に、中世ヨーロッパの最高の思想家の一人に数えられニコラウス・クザーヌス(1407-1464)の『浄化された日Dies Sanctificatus』を邦訳掲載する。この頃、眼疾を患い、医師から回復の見込みがないと告げられるが、「目以外の機能の健全なことのありがたさにも想到するとともに、総じて生きられるおかげのいのちの根源に帰命するさとりを一息ごとに生きていく南無阿弥陀仏を終日とおして約百日も経つうちに、自然に不思議にも眼疾解消・・」(無二的人間)する。昭和11年、広島文理科大学教授に就任。昭和20年8月6日朝、広島海田市の日本製鋼に大学派遣隊長として動員中に被爆。九死に一生を得るが、多くの同僚、教え子が死亡する。同年9月、浄土宗管長望月信亨の下で得度。昭和22年4月、島根県大原郡加茂町の隆法寺住職となる。同年10月、広島文理科大学教授を退官。昭和27年、愛媛大学文理学部教授に就任。昭和28年3月、京都府相楽郡山城町上狛坤町の法蓮寺住職を兼務。同年4月、広島大学文学部哲学科主任教授に就任。昭和41年、広島大学名誉教授に就任。昭和49年、財団法人光明会上首に就任。平成13年8月7日、法蓮寺にて遷化。
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