清沢満之 Kiyosawa Manshi

【清沢満之の生涯】

 満之は、文久3年(1863)6月26日、現在の名古屋市東区黒門町81番地に尾張藩下級藩士徳永永則と母タキの間に長男として生まれた。幼名は満之助といった。父永則は、当時の士族の通例に違わず、禅に親しみ、儒教的教養を身につけた人物であった。母タキは、尾張藩士の娘に生まれ、真宗大谷派の篤信の門徒として、「いつも薄紙一重がのところがわからぬ」と熱心に聞法に励んだ。満之はこのような両親の元で育ち、幼いころより正信偈、和讃、御文などに親しんだという。少年期の歩みについては、満之自身が記録した「就学履歴概略」に、次のようにある。 

明治3年(8歳)
2月初午(はつうま)の節より、手習師匠渡辺圭蔵氏に付き、専ら書を学び、傍(かたわ)ら読書を稽古す。
明治5年(10歳)
学制のかいかくありて、某義校(ぎこう)の生徒となり、後ち義校小学校と改まる。7・8、2級を卒業せり。
明治7年(12歳)
県下外国語学校の設立に際し、之に志願し、9(10歟)月入校す。後ち校名英語学校と改まり、課業にも亦(また)、少しの変動ありたれども、不相変(あいかわらず)生徒となりたり。
明治10年(15歳)
4月、英語学校廃せらる。依りて之を止む。然れども校は県立中学校となりて継続せり。同年5月。愛知県医学校の生徒となり、独乙(ドイツ)学を習ふ。7月、該校新築落成し、之に移りたれども、9月に至りて猶(な)ほ課業始の報告なし、故に之を止む。
明治11年(16歳)
1月、京都に上り、2月真宗の得度(とくど)を為し、3月育英教校に入学す。校13年に改まりて、上等普通教校となり、14年に又変じて上等教校となる。
明治14年11月
東京留学を命ぜられ、12月1日東上す。
明治15年1月
東京大学予備門に入学す。
明治16年7月
予備門を卒(おわ)り、9月文学部に入り、11月退学を命ぜられる。
明治17年1月15日
東京大学再入学の許可を得たり。

 満之が、医学への志を断念するのは、旧士族の家に生まれ、両親の経済的な事情もその要因の一つに推察できる。満之は後年、暁烏敏に次のように語っている。

私が僧侶にならうと思うたのは、坊主になれば京都に連れて行つて、本山の金で充分学問をさして呉れるとの事であつたので、自分はとても思ふ様に学問の出来ぬ境遇に居つたから、一生学問さして呉れると云ふのが嬉しさに、坊主になつたので、決して親鸞聖人や法然上人の如く、立派な精神で坊主になつたのではない

 満之は、明治14年(1881)11月、本山より、稲葉昌丸、柳祐久ととも東京留学を命ぜられ、翌15年1月、東京大学予備門第2級に編入学し、岡田良平、沢柳政太郎らの知遇を得る。この頃、物理学に関心を寄せ、成績は首席であった。満之の記録に、「予備門を卒(おわ)り、9月文学部に入り、11月退学を命ぜられる。」とあるのは、学生の騒動に連座しての退学である。明治17年(1884)東京大学に再入学した満之は、フェノロサからヘーゲル哲学を学ぶ。その影響は、暁烏敏が、「全身を挙げて仏教を研究しようと決心せられたのもフェノロサの感化であるらしい」と語り、佐々木月樵が、「晩年、師(満之)は、真宗大学学監となるるや、二三度もフェノロサ氏を米国から招こうといわれたことを予は覚えている」と語っているように、フェノロサから強い影響を受けた。
 明治21年(1888)7月、満之は、本山からの要請を受けて、京都府立尋常中学校へ校長として赴任する。当時、府立尋常中学校(後の京都府立一中)は財政難のため廃校に向かうところを、大谷派が、同校に真宗大学寮の兼学科を併設し別科を置くことと、校長を大谷派が指定することを条件に財政援助をして存続に至っていた。本山からの要請があったとき、満之は、東京帝国大学を卒業し大学院で宗教哲学を専攻する傍ら、第一高等学校と哲学館(後の東洋大学)で教鞭をとっていた。さらに、本郷西片町に一家を構え郷里より両親を迎えていた。満之は、本山からの突然の要請に、大学院に残り学問を研鑽する道を捨てて一人決然として京都の本山に帰る。この当時の状況を回想して、岡田良平は次のように語っている。

当時の同窓中、最も秀でてゐた清沢君のことでありますから、若しも他の同窓と同じ道に進まれたならば、必ずや巍然頭角をあらわされたに相違ありませんに、清沢君は京都へ帰られまして、宗教の方へ入られたものでありますから、世俗の眼より見ますれば、他の者の成功に比較して、或は見劣りがするように思われるかは知りませぬが、若し君が他のものと同じ方向に向はれたならば、他のものを凌駕して居られることは、疑ひを容れぬことゝ存じます

また、満之の言葉として、人見忠次郎はつぎのように記録している。

人は恩義を思はざるべからず。所謂(いわゆる)四恩を説くの人は多きも、其の有難味を解し、之に報ぜんことを思ふものは必ずしも多からず。人にして他より受けたる恩を解せず、之を解するも其の之に報いんことに思ひ到らざるものは、人の人たる所以にあらず。予は国家の恩、父母の恩はいふまでもなく、身は俗家に生れ、縁ありて真宗の寺門に入り本山の教育を受けて今日に至りたるもの、この点に於いて予は篤く本山の恩を思ひ、之れが報恩の道を尽くさゞるべからず。

京都府立尋常中学校へ校長として赴任した満之は、同年、三河大浜の大坊西方寺の二女清沢ヤスと結婚し清沢姓となる。赴任当時の満之について斉藤唯真は次のように回顧談を遺している。

その12月、京都の中村楼で忘年会が開かれた。勿論、大谷派に関係あるものゝ忘年会であるから、大谷派の人達丈けが集まられる。その席で初めて、兼ねて名前丈けは聞いて居つた清沢師に遇ひました。一方には高倉の講者さん達が、さながら羅漢の様な様子で陣どつて居られる。一方には若い当世風の廿五、六の小さい人が、一方の旗頭の様な風にすわつて居られる。いかにもその対照が妙である。その若い人が即ち清沢師である。その時、今では物故せられた渥美(あつみ)師が演説をやられる。清沢師も演説をせられる。私も誰かにつゝかれてやつた様に覚えて居る。その時私の頭にうつゝた清沢師は、どういふ人であるかといふと、いかにもハイカラな、香水をぷんぷんにほはせて、髪を真中からわけて居る。当世風、世間に風を切つて動く、一騎当千の男と映つて居つたのであります。今日諸君の思はれて居る様な大徳の、いかにも清沢といふ様な風はなかつたのである。

また、この頃満之の家に寓居していた従弟の大井清一は、当時の満之の生活ぶりについて、広壮な家に住み、人力車で学校に通っていた。洋服も新式なものを、それもかなり色々のものをあつらえて着用し、西洋煙草をくゆらせていたと語っている。しかし、京都府立尋常中学校へ校長として赴任してちょうど二年後の明治23年(1890)7月、校長を辞任しその生活ぶりを一変させる。満之に代わって校長になった稲葉昌丸は次のように述べている。

師は感ずる所ありて校長の職を辞せられました。併し高倉の大学寮に於ける哲学の講義、及び中学の授業の方は従前の通り変わりませなんだ。此の時已後の変化は驚くべきもので、猛烈なる制欲主義の実行が始まりました。之まで分けてあった髪は除かれ、モーニングコートは法衣に代わりました。当時は文学士も希な方で、こんなみすぼらしい法衣を纏はれた為、一時は随分評判となつて、東京にまで其の話が聞え、師が法衣のまゝ尋常中学校の門を出入せられたのは一時問題となりました。

 満之はさらに、酒は元来好まず、煙草を止め、肉食を断ち、人力車は廃し、毎朝未明に里余の道を遠しとせず本山の晨朝勤行(じんじょうごんぎょう)に通い、それが終わってから学校に向かった。満之の「ミニアムポッシブル」といわれる禁欲自戒生活の始まりである。明治24年10月に、母タキが亡くなると、その禁欲自戒生活は、満之はこれを「実験」と称して、さらに徹底したものになる。食事は、麦飯に一菜限りを常とし、さらには、塩を断ち、煮炊きを止め、そば粉を水に溶かして食べ松脂をなめるというところまで進んだ。

暁烏敏の満之との最初の出会いは、満之が生活を一変させて三年を過ぎた明治26年9月、暁烏敏、時に17歳、満之、時に31歳である。暁烏敏はそのときの感銘を次のように記している。

明治26年の9月、京都に上り大谷中学校の2年級に入る。敏、時に17歳なりき。
京都なる大谷中学校の第1学期の始業日は、9月11日なりしと覚ゆ。朝来各学科の受持教師は、順次に教場に来りて、明日よりの教授の方法、下調べの箇処など指定せられぬ。就中、何課の先生なりしか今は記憶に存せざれども、其の先生が種々指導を与へつゝある時に、教場の入口に立てる人あり。身長低く、顔黒く、眼鏡かけたる僧形にして、木綿白衣に麻の黒衣と同じ黒袈裟を召したまへり。敏、今まで地方にありて、僧衣は絹又は絽にて作るものにして、麻衣の如きは、伴僧か役僧の着するものとのみ思ひ居りしことゝて、奇異に思ひ、指導をあたえへつゝある先生の方は向かで、この教場入口に直立せる人を凝視し、思へらく、この人生徒にてはなかるべきも、先生なりとは見えず。さりとて先生にあらずば、かゝる所へは来給ふ筈なし、いかなる人にか。先生なりとせば、宗乗の師か、余乗の師かなど思ひ居る内、前の先生は教場を出でられ、小身僧形の人は、口元引きしまれる威厳ある風采にて教壇に立ち給へり。此の時、我尚ほ思へり。服装の割に威勢のある人也。この人『和讃』をや講ず、『八宗綱要』をや講ずると。然るにこの人は、仏書を前に開かずして、洋本を卓におき給へり。明日より、スマイル氏の『セルフ・ヘルプ』を読むべしと宣ひし時は、一層奇異の念に打たれぬ。
我これまで、英語を読む人は、洋服など着用せる人のみと思ひ居りし事とて、かゝる僧侶が英語を教へらるゝにやと疑ひぬ。下調べは、毎日2貢巳上して来れよ、など云ひ残して去り給ひし後、我あまりの不審さに、傍にありし学友に、あんな人が英語がよめるにやと尋ねしに、その学生は、巳前より京都中学校にありし者なりければ、傲(ほこ)りかに云ひけらく、あの先生こそ文学士徳永満之先生にて、巳前は校長の職に居られ、仲々有名なる方也、君知らずやと。されど当時の我は、徳永氏のいかにえらき人なるかを知らず。たゞ文学士になりたいといふにて、えらき人なるべしと思ひぬ。かくて、敏は、はじめて清沢先生を拝し、先生の教に接し、先生の名を知りぬ。今日に至りても、先師を思ふ毎に、この時の先師の異様の風采が目前に髣髴(ほうふつ)たるを覚ゆる也。・・・・・
先生は・・・・毎朝本山の晨朝に参詣せられては学校に来らるゝが常也。僧形に墨色の頭陀袋を首にかけ、小倉緒の二つ歯の低下駄を召したる凛乎たる風采は、全校の生徒をして、威敬の念を起こさしめぬ。

 満之の禁欲自戒生活の実践は、徹底した内観的省察の始まりである。それは、宗教の外側に立脚して宗教を解明しようとすることから、真なる宗教的生活への飛躍である。真なる宗教的生活とは、自己が不確かなものであることに目覚めて、そこから宗教の外側に向けて開かれていくことである。「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して、仁雲に法爾に、この現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり」(満之、日記)。「絶対無限の妙用」とは、如来の慈悲のことである。即ち、如来の現前の境遇に落在するところに自己が在り、そこから宗教の外側に開かれていく。それが、絶対他力の大道を歩むということである。
 満之は、この禁欲自戒生活の実践を境に、宗教的思索を深めていく。明治25年に刊行された『宗教哲学骸骨』は満之の宗教思想の中核をなす論考である。その英語版『The Skeleton of Philosophy of Religion』からその一部を引用する。
(『宗教哲学骸骨』は、明治36年(1898)に開かれるシカゴ世界宗教大会に提出するペーパーとして英語版が作られた。)

Who is a Christian? It is he who believes in Christ(seperate). No, it is he who has Christ in himself(middling). Not yet;he is a true Christian, who is himself Christ(undistinguished). Again, who is a Bubbhist? It is he who believes in Buddha(separate). No, it is he who has Buddhahood in himself (middling). Not yet; he is a true Buddhist who is himself Buddha(undistinguished). At first, the Infinite is outside(so to say) of the finite and the finite outside of the Infinite. Then the Infinite enters into the finite or the finite has the Infinite. Finally the Infinite becomes or is one with the finite or the finite becomes or is one with the Infinite. Such is religion and its stages.

キリスト教徒とは誰のことをいうのか。キリストを信じる人である(分離の段階)。いやむしろ、自分自身のなかにキリストをもつ人のことである(中間点の段階)。それでもまだ十分ではない。自分自身がキリストである人こそが真のキリスト教徒である(未分段階)。同じく、仏教徒とは誰のことなのか。ブッダを信じる人のことである(分離の段階)。いやむしろ、自分自身のなかにブッダをもつ人のことである(中間点の段階)。それでもまだ十分ではない。自分自身がブッダである人こそ真の仏教徒である(未分の段階)。

 明治27年(1894)4月31歳、それまでの禁欲自戒生活の実践が導いたが如くのように、左肺上葉結核症の診断を下される。満之はここではじめて、自己の存在の根本的な成り立ちそれ自身が不如意であることを自覚するに至る。満之は亡くなる前年の明治35年5月末日の日記(臘扇記)に次のように記す。

 回想す。明治廿七八年(27、8年)の養痾(ようあ)に、人生に関する思想を一変し略(ほ)ぼ自力の迷情を翻転(ほんてん)し得たりと雖(いえど)も、人事の興廃は、尚ほ心頭を動かして止まず。即ち廿八九年(28、9年)に及べる教界運動を惹起(じゃっき)せしめたり。
而して卅年(30年)末より、卅一年(31年)年始に亘(わた)りて四阿含等を読誦(どくよう)し卅一年四月、教界時言の廃刊と共に此運動を一結し、自坊に投じて休養の機会を得るに至りては大に反観自省の幸を得たりと雖ども、修養の不足は尚ほ人情の煩累に対して平然たる能(あた)はざるものあり。
 卅一年秋冬の交、エピクテタス氏教訓書を披展するに及びて、頗る得る所あるを覚え卅二年、東上の勧誘に応じて已来は、更に断へざる機会に接して、修養の進就するを得たるを感ず。
 而して今や仏陀は、更に大なる難事を示して、益ゝ佳境に進入せしめたまふが如し。豈感謝せざるを得むや。

 この日記に書かれる、「人事の興廃は、尚ほ心頭を動かして止まず。即ち廿八九年(28、9年)に及べる教界運動を惹起(じゃっき)せしめたり。」は、宗門の実権をほぼ独占し、教団の財政再建を第一として教団運営を進める執事渥美契縁に対し、教学第一を主張して、学制と寺務改正を求めた教団改革運動を指す。満之はその中心となり、満之以下、南条文雄、村上専精、今川覚神、稲葉昌丸、井上豊忠、清川円誠、藤谷還由、藐姑射貴之、柳祐信、小谷真了、太田祐慶の12名の連署による寺務改正の建言書を渥美契縁に提出する。満之らの目指した改革は一旦は実現するかにみえるが、老獪な渥美契縁を前に改革は後退すし対立はさらに深まる。満之以下、今川覚神、月見覚了、井上豊忠、清川円誠、稲葉昌丸の六名は、状況を打開するため京都府愛宕郡白川村に教界時言社を設け、雑誌『教界時言』を発行し、言論による改革運動の立て直しを目指して決起する。満之はここに籠居した。世にいう「白川党」である。白川党を中心にした改革運動は、東京にいた村上専精、井上円了、南條文雄らの支援を受け、さらに関根仁応、佐々木月樵、暁烏敏、多田鼎ら真宗大学の学生たちも改革運動に加わった。改革運動の攻勢のなか、渥美契縁は表舞台からは失脚する。満之を中心とした改革派は、教界時言社を堺町通二条(京都市中京区亀屋町)に移し、そこに大谷派寺務革新請願事務所を設け、全国各地から署名者約二万人による請願書六十余通を集め、法主大谷光瑩への面謁を求めた。しかし連日の交渉も叶わず、さらに、三百余名の上京委員を結集し大谷派革新全国同盟を結成するが、本山側は、明治30年2月14日、満之以下教界時言社六名の大谷派からの除名と村上専精の奪班を発表する。法主への面謁は、同年2月18に許され請願書を提出するが、渥美契縁の後、本山側の実務責任者として実権を握った石川舜台の施策によって、満之ら改革派の求めた宗門改革は形骸化され、大谷派革新全国同盟は解散となり、雑誌『教界時言』は、明治31年4月の第17号をもって終刊となる。

 満之は、明治30年(1897)2月14日の大谷派除名の処分以降、初期仏教の経典である阿含経の漢訳「四阿含」に親しむようになり、翌31年、除名処分を解かれた後の同年5月、家族とともに三河大浜の西方寺に投じてからは、それに加え、古代ギリシアのストア派の哲学者エピクテトスの語録にも親しむようになる。満之は後に、この二書に歎異抄を加え、「予の三部経」と呼ぶ。満之は、結核の養痾と、宗門改革運動の挫折を経て、さらに宗教的内観を深めていく。西方寺に滞在中に記した『臘扇記』(日記)は、その心情と精神の深まりを表出したものである。

 明治32年(1899)4月、『臘扇記』を結稿し、同年6月、法主大谷光瑩の第二子光演(句仏)の再三の求めに応じ、大浜を出て東京に居を移し、光演の輔導を務めることになり、次に、真宗大学の運営に尽力することを求められる。これに対し、真宗大学の東京移転、教育行政の一任、財源の確保の三つの条件を付け、その任を引き受ける。これにより、明治34年10月、満之が学監を務め、関根仁応を主幹に据えた真宗大学が巣鴨に移転開校する。

《浩々洞》
真宗大学の巣鴨移転開校の前年の明治33年4月、満之は、近角常観が本山の命によって欧米視察に派遣されると、その留守宅を任されることになる。この留守宅には、常観が中学生十人ほど寄宿させていた。ここに満之は、月見覚了、原子広宣ともに移り住むことになり、続いて同年9月には、京都の真宗大学を卒業した暁烏敏、佐々木月樵、多田鼎の三人がこの共同生活に加わることになる。これが世にいう「浩々洞(こうこうどう)」の始まりである。以下は暁烏敏の回想である。

 九月の始に東京に行った。多田君も来た。佐々木君も来た。…… 学生達が十人ばかりゐた。先生の居間は階下の十畳であった。その次の六畳の間に原子君がゐた。私達三人は階上の八畳に机を三つ並べてゐた。…… 誰がいひ出したとなく、私達は手紙を書いても「清沢方」と書くのが何だか気持ちが悪いから、此処に何とかいふ名をつけたらといひ出した。…… そこで或る日、先生や月見師や私達と青年会の諸君も来て、思ひ思ひに書いてみた。そして遂に「浩々洞」といふ名をつけることにした。先生は、自分の室に樹心窟といふ名をつけられた。月見師は、自分の室に不緇窟と名づけられた。私達は、自分の室に般若窟と名づけた。私共の隣室が仏間になってゐた。そこには光演師から頂いた縮刷蔵経がおいてあった。

 浩々洞は、満之没後も含め、和田龍造、近藤純悟、安藤州一、曽我量深、金子大栄、赤沼智善、山辺習学、木場了本、京極一蔵、鈴木俊栄、午腸鉄乗、谷内正順らが加わり、機関紙『精神界』を刊行した。満之はここに「精神主義」をはじめとする多数の論文をつぎつぎと発表する。浩々洞は移転を重ねながらも、大正6年(1917)まで存続し、『精神界』は、大正8年(1919)に至って廃刊となった。
 満之を中心とした『精神界』の主張は、時代の思想運動の一つの潮流をなし、浩々洞からは多くの優れた宗教思想家が育った。

 明治35年(1902)10月21日、満之は、学生たちによる真宗大学主幹関根仁応に対する排斥運動にともない、真宗大学学監を辞職する。学生たちは、この予想外の事態に困惑し、請願書を作って満之の学監留任を訴えるが、満之の決意は変わらず、同年11月6日、大浜に帰る。満之は、この年の6月に長男信一を亡くし、辞職する直前の10月6日には妻ヤスを亡くしている。満之はこの頃には自らの死の近いことを悟っていたように思われる。
 明治36年(1903)、4月9日、三男広済が亡くなる。同年5月30日に絶筆となる『我信念』を脱稿、6月3日午前より大喀血、小喀血が続き、6月6日未明、没する。享年41歳であった。

以下は、亡くなる五日前の6月1日、暁烏敏に宛ての手紙である。

 六月に入ればつゆの時節は当たり前ではあるけれども、既に五月末から、そろそろ梅雨らしき天気にて鬱陶敷事であります。病人特に肺病人は、一層困難の時であります。貴君も多少頃日来神経的の御様子は察申します。小生は何だか知らぬが癇癪的調子で(他の者へは仕方なき故)、原のみをいぢめて居ります。時々あまりひどいなーと思ふこともありますが、つい反射的に煩悩が起るには、愧ぢ入ります。……
 原稿は三十日の夜出して置きましたから、御入手になりたことゝ存じます。別に感ずべき点もないと思ひましたが、自分の実感の極致を申しましたのであります。……
 「浜風」と云ふ号は近頃の得物であります。大浜は風の多き処と云ふ話から取りましたが、丁度小生の如き半死半生の幽霊には適当と感じて居ります。此の一号が又小生の今日迄の諸号を総合して居りますのも、自分には面白く存じます。諸号とは(在名古屋時)建峯、(在京都時)骸骨、(在舞子時)石水、(在東京時)臘扇の四つであります。是でひゅーどろと致します。 

                     六月一日  参河 浜風 非無君 机下

《清沢満之の生涯》は、『浄土仏教の思想・十四 清沢満之』(脇本平也/講談社)を底本に、『清沢満之語録』(今村仁司/岩波現代文庫)、『清沢満之全集』(岩波書店)、『清沢満之全集』(法蔵館)を参考文献に作成した。

清沢満之 五言連句幅 必當値賢聖 至此生死源
五言連句幅
必當値賢聖 至此生死源

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