これまでの掲載作品から辿る、日本の歴史にちりばめられた精神と美の軌跡
- 南画と文人画
- 「南画」は、中国絵画の伝統的スタイル「南宗画」の略語で、日本において南宗画に学んだ人たちの絵画を「南画」と呼び、日本絵画史のなかで一画派を定義する言葉です。本来の南宗画、文人画という言葉は、中国明代末期の画家であり書家であり画論家であった董其昌(1555~1636)によって初めて用いられ、董其昌はその画論「画禅室随筆」の中で、禅宗において唐代に南北両派が分裂し、のちに南宗禅が栄えて北宗禅が衰えたことになぞらえ、絵画の世界にも「北宋」と「南宋」の二派があると説きました。北宋は唐代の画家李思訓(651~716)、李昭道父子に始まり、宋代の趙幹、趙白駒、趙白粛から馬遠、夏珪に至り、硬い輪郭線(鈎斫之法)で描いた峻厳な青緑山水画を特徴とします。南宗は、唐代の画家王維に始まり、張澡、荊浩、関同、董源、巨然、郭忠恕、米家父子から元の四大家に至るもので、北宋画の墨の線による単純な輪郭線ではなく、水分量の多い湿墨を刷り込んで水筆でぼかす渲染法による皴法(筆のタッチによる山や岩の描法)を用いた軟らかな水墨山水画を特徴とします。董其昌による南宗画の定義はこのように、北宗画に対していわば様式的、技巧的違いを論拠とするものでした。一方、「文人画」は、文人による絵画であり、文人とは、基本的に儒教的教養を有し、詩文を作る能力を有する者で、特に宋代以降、官僚登用試験である科挙に合格した「士大夫」という知識層がその中核となりました。そして彼ら文人は、職業画家としてではなく、人格形成のための修練のひとつとして主に南宗画様式の絵画を描きます。いわば董其昌の述べた文人画とは、南宗画を描く文人たちの絵画であり、その意味において南宗画と文人画は同義語としての一面を持つともいえ、董其昌はその代表的画家に、先に南宗画家として名前を挙げた王維から董源、巨然、米家父子、元の四大家から文徴明、沈石田を挙げるのです。日本における南画と文人画の定義は、中国における南宗画、文人画の概念を導入したものではありますが、日本の南画は、中国における南宗画を中心に、明清絵画など広く中国様式に学んだ絵画であり、与謝蕪村(1716~1784)、池大雅(1723~1776)がそうであるように、日本の文人画は必ずしも支配層に属する者の絵画ではなく、あるいは職業的画人であっても、中国文人の精神性を範とし、儒教的教養を有し、詩文を作る能力を有していれば、それは日本的文人であり、日本的文人の描く絵画が広く中国様式に学ぶ絵画であれば、中国南宗画様式に限定されなくとも、日本では文人画と理解されます。このように、中国において生まれた「南宗画」、「文人画」という概念が、日本においては、中国とは異なる文化的背景、政治的背景のなかで、いわば日本的南画、日本的文人画として発展をし、そこに、南画と文人画、あるいは南画家と文人画家に明瞭な違いはありませんが、少なくとも、日本において「南画」あるいは「南宗画」は、その絵画的特徴を指す言葉であり、「文人画」は、文人の教養、人格、精神性に価値を置く言葉であると理解してよいでしょう。(長良川画廊店主)