白井晟一 Shirai Seiichi
1905年
二月五日白井七蔵の長男として京都に生まれる。白井家は代々銅を扱う豪商であった。
1910年
黄檗山万福寺に預けられ作法や書などの修行を受ける。
1917年
父の死後、姉の嫁ぎ先である日本画家近藤浩一路邸(本郷湯島)に身を寄せる。
近藤邸には頻繁に菊池寛、芥川龍之介らが訪問。
1923年
関東大震災で近藤邸炎上。一時横山大観邸に身を寄せるが、京都に移転した近藤邸に移る。
近藤邸は自宅で画塾、墨心舎を開き、そこに岸田劉生、藤田嗣治、中川一政らが時々逗留。
1924年
京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)建築科に入学。隣の京都大学の田辺哲学を聴講。
1926年
同校講師になった戸坂潤に兄事し哲学に傾斜、戸坂の紹介で京大の美学者深田康算より「建築家になるなら哲学を」の教えに生涯の啓示を受ける。
1928年
深田の勧めで渡欧、リッケルトを訪ねハイデルベルグ大学入学
実在主義哲学者ヤスパースのゼミに通う。
1931年
休暇中のパリで今泉篤男、林芙美子、アンドレ.マルロー、イリヤ.エレンブルグらと交流
。
1933年
シベリヤ経由で帰国。
1935年
「近藤邸」を実質設計、白井の建築家の第一歩が始まる。
1936年
山本有三の『真実一路』(新潮社)の装丁。
1946年
「三里塚農場計画」
1952年
国学院大学で「華道と建築」講演。
1954年
「原爆堂計画」、実現しなかったが白井の建築家としての基本姿勢を示すばかりでなく、批判精神と創造精神の見事な結晶として記念碑的な作品となった。
1960年
戦後初めてのヨーロッパ旅行、帰国後仏教思想特に道元に取りくみ『書』を行とするようになる。
1961年
高村光太郎賞建築部門第一回受賞者となる。 (「秋ノ宮町役場」「松井田町役場」「善照寺」など)
1969年
建築年鑑賞、建築学会賞、毎日芸術賞、が「親和銀行本店」の業績に授与。
建築家白井晟一の名が不動のものとなる。
1970年
三一書房「現代日本日本建築家全集」全二十四巻の第一巻配本として『白井晟一』が刊行。
初めての「顧之書」展を銀座で開く。『顧之居書帖 第一巻』出版。
1974年
中央公論社より白井晟一の集大成として『白井晟一の建築』が刊行
。
1975年
「ノア.ビル」で日本サインデザイン賞受賞。
1976年
『顧之居書帖 第二巻』形象社出版。
1977年
朝日新聞の『日記から』連載。形象社刊行『恩地孝四郎版画集』装丁
1978年
第二回「顧之書」展を六本木で開く。世界文化社から『白井晟一 建築とその世界』が刊行。
『白井晟一研究』全五巻が南洋堂出版から刊行。求龍堂『高田博厚作品集』装丁。
民芸の会主催『縄文と弥生』をテーマに岡本太郎と公開対談
1979年
筑摩書房より評論.エッセイ集『無窓』刊行。
1980年
第三十六回日本芸術院賞受賞。(「親和銀行本店」の業績に対し「渋谷区立松濤美術館」設計建築。
1981年
「石水館」(静岡市立芹沢銈介美術館)設計建築)。
1982年
商空間デザイン特別賞(「亜門茶廊」帝国ホテル本館地階)。
1983年
十一月十九日京都嵯峨野の「雲伴居」現場で逝去。七十八歳。
『顧之昏元 白井晟一の書展』(銀座松坂屋)年譜
Paris, 27.02.2003
Mr. Hyosuke Shirai
Architekturburo Shirai
2-25-2 Eharacho Nakano-ku
Tokyo 165-0023
Dear Mr. Shirai,
I do thank you for your letter concerning the calligraphies of your father, Seiichi Shirai, the well-known architect.
Our museum would be greatly honoured to keep these two very powerful calligraphies as a memory of a famous architect who was so deeply involved in philosophy and who mastered so well the difficult art of calligraphy.
Please let me know how you wish to proceed on such a matter for which we are very grateful to you.
With all my thanks,
With my very best regards,
Jean-Francois Jarringe,
Directeur
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