田中正造 Tanaka Shouzou
天保12年(1841)~大正2年(1913)
下野国安蘇郡小中村(栃木県佐野市小中町)の名主富蔵の長男として生まれる。幼名、兼三郎。安政4年(1857)、父の跡を継いで小中村名主となる。慶応4年(1868)、領主である六角家に対して、村民の先頭に立って政治的要求を行い11ヶ月投獄される。明治3年(1870)、江刺県(岩手県)付属補となる。明治4年(1871)、上役暗殺の疑いをうけ投獄される。明治11年(1878)頃から、自由民権運動に参加。明治13年(1880)、栃木県会議員に初当選。明治15年(1882)、立憲改進党に入党。栃木県令三島通庸の圧政に抵抗し、県民負担軽減、小学校教育充実などを訴える。明治19年(1886)、栃木県議長になる。明治23年(1890)、第1回衆議院議員選挙に初当選。明治24年(1891)、第2回帝国議会にはじめて「足尾銅山鉱毒の儀につき質問書」を提出。明治29年(1896)、渡良瀬川大洪水を契機に鉱毒被害が深刻化。議会で鉱毒被害について繰り返し訴える。明治33年(1900)、農民らが東京へ陳情に向かう途中、群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕される。明治34年(1901)、衆議院議員を辞職。同年12月10日、東京日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に対し、直訴状を渡そうとして、警官に取り押さえられるが、即日釈放される。明治35年(1902)、川俣事件裁判での官史侮辱罪で41日入獄。獄中で聖書を読む。明治37年(1904)、栃木県下都賀郡谷中村を貯水池にする計画に反対、谷中村に移住し住民運動に参加する。明治40年(1907)、谷中村残留民家強制破壊。明治43年(1910)、政府の治水政策を正すため関東各地の河川を実地に調査。明治44年(1911)、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始される。大正2年(1913) 、河川調査から谷中村への帰途、病に倒れ死去。
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