幸德秋水 Kotoku Shusui
明治4年(1871)~明治44年(1911)
明治4年(1871)、旧暦9月23日、高知県幡多郡中村町に幸徳篤明(通称嘉平次)多治の二男として生まれる。家は菜種商・酒造業を営む。本名、傳次郎。明治9年(1876)6歳 12月、中村小学校下等第八級に入学。明治18年(1885)15歳8月、大暴風のため中村中学の校舎が倒れて中学は廃校となり就学を断念。冬、学友と淡成会を結成。明治19年(1886) 16歳2月、自由党板垣退助の歓迎会に出席し祝辞を述べる。2月22日、高知の遊焉義塾に入る。4月末、肋膜炎に罷る。5月8日、高知市本町自然堂病院に入院。重態。8月、小康を得て中村に帰る。明治20年(1887) 17歳1月、再び高知に出て遊焉義塾に入り、高知中学校に通学。7月、中村に帰る。8月17日、家出して上京。9月9日、横浜着。林有造の書生となる。小石川丸山町岩村通俊の別荘に住み、林包明の猿楽町英学館に通学。12月10日、無届欠席により同日付高知中学第二級を除名さる。12月26日、保安条例公布され、片岡健吉、中島信行、中江兆民ら570名、東京三里外の地に退去を命ぜられ、秋水も令状を執行されて西下。明治21年(1888) 18歳1月15日、中村に帰る。6月24日、宇和島から渡華を計ったが失敗。宇和島の高木行正方に寄食して、その紹介で法圓寺に寄寓。9月、退去令解除。11月2日、再度上京の途につく。途中大阪にとどまり、友人横田金馬の紹介で中江兆民の書生となる。明治22年(1889)19歳10月5日、中江兆民の家族と共に上京。明治23年(1890)20歳6月、発病し千葉に転居。9月、郷里に帰る。明治24年(1891)21歳4月、再び上京して中江家に寄寓。6月、病気のため一時白山心光寺に転居。国民英学会に通う。7月、神楽坂小野道一方に移転。後、森川町に下宿。12月15日、国民英学会訳読科を終了。明治25年(1892)22歳12月10日、私立国民英学会正科卒業。明治26年(1893)23歳、中江家に寄寓。9月、自由新聞入社。英字新聞の翻訳を担当する。明治28年(1895)25歳、3月から4月まで広島新聞入社。同僚に前田三。5月、中央新聞入社。同僚に石川安次郎、松井広吉。明治29年(1896)26歳、母多治を麻布市兵衛町に迎え同居。まもなく福島県三春辺の旧久留米藩士の娘朝子と結婚するが離婚。明治30年(1897)27歳、4月3日、社会問題研究会入会。4月、団々新聞社員となる。「茶説」を担当。同僚に真木痴嚢。明治31年(1898)28歳、2月、黒岩涙香の創刊した万朝報入社。11月、社会主義研究会入会。明治32年(1899)29歳、7月、国学者師岡正胤の娘千代子と再婚。麻布佐久間町に住む。10月、普選期成同盟会に片山潜らと参加して幹事となる。11月18日、四国非増租同盟会に参加。8月18日~12月26日、日記「時至録」を記す。明治33年(1900)30歳、2月17日、18日、万朝報紙上に「治安警察法案」を執筆する。3月11日母と共に帰省。8月30日、万朝報に「自由党を祭る文」を発表。明治34年(1901)31歳、4月『廿世紀之怪物帝国主義』刊行。5月18日、安部磯雄、片山潜、木下尚江、西川光二郎、河上清らと社会民主党結成。即日活動禁止。12月9日、田中正造から頼まれて足尾鉱毒事件についての直訴状を起草。12月10日、田中正造直訴。12月12日、万朝報社説に「臣民の請願権」を発表。12月13日中江兆民死去。(秋水の号は、兆民より賜る)明治35年(1902)32歳、5月、『兆民先生』刊行。明治36年(1903)33歳、7月、『社会主義神髄』刊行。10月10日、非戦論をとなえ堺利彦、内村鑑三とともに万朝報を退社。11月15日、麹町有楽町の平民社から週刊「平民新聞」発刊。明治37年(1904)34歳、11月13日、平民新聞に堺利彦共訳『共産党宣言』を掲載。即日発禁。11月16日、社会主義協会に解散命令。明治38年(1905)35歳、2月28日、新聞紙条例違反で禁固5ヶ月の刑を受け巣鴨監獄に入獄。7月28日、出獄。※書簡は同年9月10の日付。10月9日、平民社解散。11月14日、渡米。明治39年(1906)36歳、1月22日、オークランドのロシア革命「血の日曜日」記念集会で演説。6月1日、オークランドで社会革命党を結成。6月23日、帰国。明治40年(1907)37歳、1月15日、新富町の平民社より日刊「平民新聞」発行。明治41年(1908)38歳、6月22日、赤旗事件。8月15日、赤旗事件の公判を傍聴。淀橋町柏木の平民社に入る。9月31日、平民社を巣鴨に移転。同年、紀州新宮の医師大石誠之助、内山愚童、松尾卯一太、森近運平(4名とも大逆事件で死刑)に会う。明治42年(1909)39歳、2月5日、信州の新村忠雄(大逆事件で死刑)が上京、平民社に同居。同月13日、魚崎の宮下太吉(大逆事件で死刑)来訪。3月1日、妻千代子と協議離婚。同月18日、平民社を千駄ヶ谷に移転。この頃、管野スガ子(大逆事件で死刑)と同居。7月12日、管野スガ子が『自由思想』の発禁後頒布の容疑で拘引される。9月1日、管野スガ子保釈。同月、奥野健之(大逆事件で死刑)来訪。10月、古河力作(大逆事件で死刑)来訪。11月1日、管野スガ子が脳溢血で平民病院に入院。11月3日、宮下太吉、信州明科の山中で爆烈弾の爆破実験を行う。明治43年(1910)40歳、3月25日、爆烈弾の爆破実験発覚。6月1日、湯河原で逮捕。11月20日、獄中で『基督抹殺論』を脱稿。遺書『死刑の前』執筆。明治44年(1911)41歳、1月18日、大逆事件被告24名に死刑判決。(12名が天皇の恩赦によ無期刑に減刑、内、5名獄死)同月24日、死刑執行。
(主に『日本の名著 幸德秋水』(中央公論社)、『幸德秋水全集』(明治文庫)より作成)
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