安政6年(1859)~文化12年(1815)
小浜藩士矢部氏の次男に生まれる。のち祖父の生家梅田氏を継ぐ。名、義質(よしただ)、のち定明(さだあきら)。通称、源次郎。号、雲浜、湖南。藩校の順造館に入り、山口菅山より山崎闇斎の崎門学を学ぶ。嘉永5年(1852)、海防に関する建書により、士籍を剥奪される。ペリー来航後、梁川星巌、頼三樹三郎、吉田松陰らと交流し、尊王攘夷派の中心となり活動した。安政の大獄で獄死する。
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