保田與重郎 Yasuda Yojurou
明治43年(1910 )~昭和56年(1981)
奈良県磯城郡桜井町(現在の桜井市大字桜井)に生まれる。東京帝国大学卒業。大学在学中に同人誌『コギト』を創刊。昭和10年(1935)、神保光太郎、亀井勝一郎、中谷孝雄らと雑誌『日本浪曼派』を創刊。昭和11年(1936)、『日本の橋』他で池谷信三郎賞を受賞。日本の古典への回帰、民族主義、反近代主義の立場を強め、『後鳥羽院』『ヱルテルは何故死んだか』『美の擁護』『民族と文藝』、『近代の終焉』『古典論』『和泉式部私抄』『萬葉集の精神』『風景と歴史』『蒙彊』『機織る少女』『芭蕉』『南山踏雲録』『文明一新論』を次々と刊行、戦時下における民族主義文学の主柱的役割を担う。終戦後、彼は公職追放に処せられ、文壇から最も悪質な右翼文士として葬られ、不遇の時期を郷里で送るが、この間も「祖国」を創刊、匿名で時評文を書き「絶対平和論」、「日本に祈る」などで戦前からの思想の一貫性を守り通した。昭和19年(1944)、私家版『校註祝詞』を刊行し出陣学徒に贈る。同年夏頃より特高の監視を受ける。昭和20年(1945)3月、病中に召集され、中国大陸に派遣されるも、大患により軍病院に入院、そのまま敗戦を迎える。終戦後は公職追放を受け、不遇の時期を郷里で送るが、この間も『祖国』を創刊するなど、戦前からの思想を一貫して主張した。
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