D-544 幸徳秋水Kotoku Shusui

学びのこころ掲載作品

 幸德秋水 1
 幸德秋水 2
 幸德秋水 3  幸德秋水 4
 幸德秋水 5
作家名
D-544 幸德秋水こうとく しゅうすい
作品名
田村江東宛書簡(幸德秋水全集所収)
価格
650,000円(税込)
作品詳細
書簡寸法65.8×18.2
作家略歴

幸德秋水
明治4年(1871)~明治44年(1911)

明治4年(1871)、旧暦9月23日、高知県幡多郡中村町に幸徳篤明(通称嘉平次)多治の二男として生まれる。家は菜種商・酒造業を営む。本名、傳次郎。明治9年(1876)6歳 12月、中村小学校下等第八級に入学。明治18年(1885)15歳8月、大暴風のため中村中学の校舎が倒れて中学は廃校となり就学を断念。冬、学友と淡成会を結成。明治19年(1886) 16歳2月、自由党板垣退助の歓迎会に出席し祝辞を述べる。2月22日、高知の遊焉義塾に入る。4月末、肋膜炎に罷る。5月8日、高知市本町自然堂病院に入院。重態。8月、小康を得て中村に帰る。明治20年(1887) 17歳1月、再び高知に出て遊焉義塾に入り、高知中学校に通学。7月、中村に帰る。8月17日、家出して上京。9月9日、横浜着。林有造の書生となる。小石川丸山町岩村通俊の別荘に住み、林包明の猿楽町英学館に通学。12月10日、無届欠席により同日付高知中学第二級を除名さる。12月26日、保安条例公布され、片岡健吉、中島信行、中江兆民ら570名、東京三里外の地に退去を命ぜられ、秋水も令状を執行されて西下。明治21年(1888) 18歳1月15日、中村に帰る。6月24日、宇和島から渡華を計ったが失敗。宇和島の高木行正方に寄食して、その紹介で法圓寺に寄寓。9月、退去令解除。11月2日、再度上京の途につく。途中大阪にとどまり、友人横田金馬の紹介で中江兆民の書生となる。明治22年(1889)19歳10月5日、中江兆民の家族と共に上京。明治23年(1890)20歳6月、発病し千葉に転居。9月、郷里に帰る。明治24年(1891)21歳4月、再び上京して中江家に寄寓。6月、病気のため一時白山心光寺に転居。国民英学会に通う。7月、神楽坂小野道一方に移転。後、森川町に下宿。12月15日、国民英学会訳読科を終了。明治25年(1892)22歳12月10日、私立国民英学会正科卒業。明治26年(1893)23歳、中江家に寄寓。9月、自由新聞入社。英字新聞の翻訳を担当する。明治28年(1895)25歳、3月から4月まで広島新聞入社。同僚に前田三。5月、中央新聞入社。同僚に石川安次郎、松井広吉。明治29年(1896)26歳、母多治を麻布市兵衛町に迎え同居。まもなく福島県三春辺の旧久留米藩士の娘朝子と結婚するが離婚。明治30年(1897)27歳、4月3日、社会問題研究会入会。4月、団々新聞社員となる。「茶説」を担当。同僚に真木痴嚢。明治31年(1898)28歳、2月、黒岩涙香の創刊した万朝報入社。11月、社会主義研究会入会。明治32年(1899)29歳、7月、国学者師岡正胤の娘千代子と再婚。麻布佐久間町に住む。10月、普選期成同盟会に片山潜らと参加して幹事となる。11月18日、四国非増租同盟会に参加。8月18日~12月26日、日記「時至録」を記す。明治33年(1900)30歳、2月17日、18日、万朝報紙上に「治安警察法案」を執筆する。3月11日母と共に帰省。8月30日、万朝報に「自由党を祭る文」を発表。明治34年(1901)31歳、4月『廿世紀之怪物帝国主義』刊行。5月18日、安部磯雄、片山潜、木下尚江、西川光二郎、河上清らと社会民主党結成。即日活動禁止。12月9日、田中正造から頼まれて足尾鉱毒事件についての直訴状を起草。12月10日、田中正造直訴。12月12日、万朝報社説に「臣民の請願権」を発表。12月13日中江兆民死去。(秋水の号は、兆民より賜る)明治35年(1902)32歳、5月、『兆民先生』刊行。明治36年(1903)33歳、7月、『社会主義神髄』刊行。10月10日、非戦論をとなえ堺利彦、内村鑑三とともに万朝報を退社。11月15日、麹町有楽町の平民社から週刊「平民新聞」発刊。明治37年(1904)34歳、11月13日、平民新聞に堺利彦共訳『共産党宣言』を掲載。即日発禁。11月16日、社会主義協会に解散命令。明治38年(1905)35歳、2月28日、新聞紙条例違反で禁固5ヶ月の刑を受け巣鴨監獄に入獄。7月28日、出獄。※書簡は同年9月10の日付。10月9日、平民社解散。11月14日、渡米。明治39年(1906)36歳、1月22日、オークランドのロシア革命「血の日曜日」記念集会で演説。6月1日、オークランドで社会革命党を結成。6月23日、帰国。明治40年(1907)37歳、1月15日、新富町の平民社より日刊「平民新聞」発行。明治41年(1908)38歳、6月22日、赤旗事件。8月15日、赤旗事件の公判を傍聴。淀橋町柏木の平民社に入る。9月31日、平民社を巣鴨に移転。同年、紀州新宮の医師大石誠之助、内山愚童、松尾卯一太、森近運平(4名とも大逆事件で死刑)に会う。明治42年(1909)39歳、2月5日、信州の新村忠雄(大逆事件で死刑)が上京、平民社に同居。同月13日、魚崎の宮下太吉(大逆事件で死刑)来訪。3月1日、妻千代子と協議離婚。同月18日、平民社を千駄ヶ谷に移転。この頃、管野スガ子(大逆事件で死刑)と同居。7月12日、管野スガ子が『自由思想』の発禁後頒布の容疑で拘引される。9月1日、管野スガ子保釈。同月、奥野健之(大逆事件で死刑)来訪。10月、古河力作(大逆事件で死刑)来訪。11月1日、管野スガ子が脳溢血で平民病院に入院。11月3日、宮下太吉、信州明科の山中で爆烈弾の爆破実験を行う。明治43年(1910)40歳、3月25日、爆烈弾の爆破実験発覚。6月1日、湯河原で逮捕。11月20日、獄中で『基督抹殺論』を脱稿。遺書『死刑の前』執筆。明治44年(1911)41歳、1月18日、大逆事件被告24名に死刑判決。(12名が天皇の恩赦によ無期刑に減刑、内、5名獄死)同月24日、死刑執行。

(主に『日本の名著 幸德秋水』(中央公論社)、『幸德秋水全集』(明治文庫)より作成)

田村江東
明治6年(1873)~昭和14年(1939)

東京に生まれる。本名、三治。東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科卒業。中央新聞社主筆を務める。文芸誌『文壇』を国木田独歩、岩野泡鳴、加藤咄堂らと創刊。著書に『女と職業』(大空社)、『活動せる実業界之婦人』(博文館)など。

コンディション他

(封筒・表)
芝区神明町二十五
田村三治様
(封筒・裏)
淀柳町柏木八十九 幸德傳次郎

(書簡)
拝啓御無沙汰申訳がない
今日君の名刺を平民社から
届けてよこした久しく会
はないからつもる話しもある
殊に御用とあれば直ぐ
御尋ねしたくて堪らないが
獄中から持越しの病気が
今以て平癒せず少し快く
          なると思ふと下痢を起すので
矢張臥床して居る始末
尤も二時間や三時間や出
られないこともないが電車
はひどく疲れるのと動揺が
腸に悪いので何處へも
御無沙汰してる甚だ済
まないが一日新聞社がハねて
から新宿御来電(是は故緑雨が拵へた新熟語だ
)  は願はれまいか尤も僕も 
   近日平民社まで行たいと
    思つて居るから午前中に
君の宅か社かへ尋ねても
よいから何時居るか一寸
知らせてくれ玉へ 
       万縷は逢て話さう
左様なら
九月十日 (したたむ) 秋水拝
  江東老兄

【後記】
 幸徳秋水が処刑されたのは、明治という時代が終わりを告げようとする明治44年(1911)1月18日です。日本はその前年の明治43年(1910)8月、韓国を併合する。近代国家日本はその後、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と突き進み、終には日本のほぼ全域が空爆や機銃掃射にさらされ、数多くの都市が焼け野原となり、日中戦争と太平洋戦争を併せて310万人(厚生省社会・援護局援護50年史編集委員会)の日本人が命を失います。明治22年(1889)、大日本帝国憲法が発付されてから僅か56年後のことです。日本に誕生した近代国家は、日本の歴史上かつてない犠牲を国民に与え、日本の歴史上初めて他国に占領され滅亡するのです。それは日本人の営みのなかで、最も激しい経験であったといえると思います。
 私は、明治20年代前半に近代国家としての体裁を整えた日本が、世界的な帝国主義の時代にあって、それに追随するのは必然であったという歴史観を明とするなら、幸德秋水他24名が死刑判決を受けた大逆事件(12名が天皇の恩赦によ無期刑に減刑、内、5名獄死)、関東大震災直後に起こった朝鮮人虐殺事件、大杉栄と伊藤野枝、大杉栄の甥橘宗一の3名が憲兵隊憲兵によって殺害された大杉事件、社会主義者ら13名が警察、軍によって殺害された亀戸事件、そして被差別部落問題は、その暗を象徴すると思います。そしてその暗のなかにこそ、日本の近代の本質が、同時に日本人の本質が隠されていると思います。このことを最も深く洞察していたのは、あるいは血肉にし、炙り出すように小説を書いたのは作家の中上健次です。中上健次は、紀州新宮の被差別部落の出身です。大逆事件に連座し死刑になった大石誠之助、成石平四郎、死刑判決後無期刑に減刑された峰尾節堂(獄死)、高木顕明(獄死)、崎久保誓一、成石勘三郎の6名も、中上健次と同じ紀州新宮の出身、あるいは紀州新宮の社会主義運動や部落解放運動に関わった人たちです。中上文学を代表する三部作、『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』は、紀州熊野の被差別部落=「路地」を故郷にした人たちの積み重なる怨念のような憎悪と欲望が、複雑な血縁や地縁に絡み合いうごめきながら語られる物語です。中上健次は、『風景の系譜 佐藤春夫』(初出は昭和54年「国文学」2月号。『風景の向こうへ|物語の系譜』講談社文芸文庫に所収)のなかで次のように書いています。

  佐藤春夫と私は同郷である。その春夫に「愚者の死」という詩がある。とりあえず、論じるにとば口を見つけ難いこの作家の想いのこもった詩一偏を引用して、私が彼に見る物語の系譜を顕らかにする道筋を立ててみようと思う。

愚者の死
千九百十一年一月二十二日
大石誠之助は殺されたり。

げに厳粛なる多数者の規約を
裏切る者は殺さるべきかな。

死を賭して遊戯を思ひ、
民族の歴史を知らず、
日本人ならざる者
愚なる者は殺されたり。

   「嘘(うそ)より出でし真実(まこと)なり」と
絞首台上の一語その愚を極む。

われの郷里は紀州新宮。
渠(かれ)の郷里もわれの町。

聞く、渠が郷里にして、わが郷里となる
紀州新宮の町は恐懼せりと。
うべさかしかる商人(あきんど)の町は嘆かん、
―――町民は慎めよ。
教師らは国の歴史を更にまた説けよ。

 この愚者大石誠之助が処刑された「千九百十一」は明治四十四年、春夫が二十歳の時である。春夫の年譜をみると、東京に出て来た翌年だった。この愚者の死によって象徴される大逆事件は〈われの郷里は紀州新宮。渠(かれ)の郷里もわれの町〉たる新宮や新宮出身の者には、はかりしれないほど多くの影響を与える。さながら、アメリカの南部の者における南北戦争の影響力と同じである。私にも同様である。いつごろからか、最初は無自覚に、そのうち自覚して、小説の舞台のことごとくを〈紀州新宮〉と覚しき土地に持っていき物を書いている者の眼には、戦争、空爆、敗戦という過ぐる戦争の影響よりももっとなまなましく大逆事件はその土地に衝撃を与え、その土地の〈規約〉を破戒したと言える。春夫は、現存する国家と、いまひとつ紀州という国家の戦争を見、敗北を見、二十歳ですでに転向していたのである。

〈げに厳粛なる多数者の規約を
   裏切る者は殺さるべきかな〉

多数者の規約とは、現存する国家の事である。それを裏切っていたのは他の誰でもなく春夫であり、殺されたのもまた春夫である。もちろん〈多数者の規約を裏切る〉とは、大逆事件の表立った意味であるクロポトキンやバクーニンの名を口にして無政府共産と舌ったらずの思想を持ち、天皇暗殺を謀議していたという事では決してない。〈渠の郷里〉〈われの町〉たる紀州の持っている意味を全うする事である。紀州とは一体何だろうか?
  春夫の故郷であり、愚者の故郷である紀州新宮は、紀伊国牟婁郡熊野の里の事でもある。熊野とは、古事記神武東征の条りに〈大熊髪(ほの)かに出で入りてすなはち失せき。ここに神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)、倐忽(にほ)かに惑(そ)えまし、また御軍も皆惑えて伏しき〉とある熊の瘴気に満ちた土地である。いつも紀州熊野は絶えず闇の中にある。紀州は、〈天つ神の御子、すなはち窹(さ)め起きて、「長く寝つるかも」と詔りたまひき。故、その横刀を受け取りたまひし時、その熊野の山の荒ぶる神、自ら皆切り仆(たふ)さえき〉と言うその時から、敗れた者やおとしめられた者の想いや、その敗れた者らそのものが無時間的に集まり、物語り、それらが力となって渦巻き、観念としての国家をきずくのである。敗れた者の怨霊や物語が、島国の海に突き出したようなふぐりのような形、男根のような形のこの半島、紀州に落葉のように重なり、腐敗する。
  つまり、ここは敗れた者、おとしめられた者、不具の者、異形の者、死んだ者の視線でつくられた国家である。可視の状態になると限らず定められた規約〈国家〉と抵触せざるをえない物語の渦巻く土地である。春夫が、二十歳の時、出郷した東京で知った同郷の愚者の死によって象徴される明治四十四年の大逆事件は、何度目かの、紀州という闇の国家の〈定められた規約(国家)との抵触、戦争であったと言える。〉

 そして中上健次は次のように語ります。 《戦後に紀州新宮に生まれた私に、第二次世界大戦、太平洋戦争は、存在しなかったとさえ思えるのである。というのは、熊野、紀州新宮が経験した戦争とはあの大逆事件でしかない。》(『風景の系譜 佐藤春夫』)。
 中上健次の三部作、『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』の主人公の名「秋幸」は、幸徳秋水を捩(もじ)ったものだともいわれます。中上健次は、この三部作、また『化粧』、『千年の愉楽』、『日輪の翼』、『水の女』『紀伊物語』など、遺作となった『異族』にいたるまで、その作品群の根っこにはことごとく大逆事件があり、部落差別があり、「敗れた者、おとしめられた者、不具の者、異形の者、死んだ者の視線でつくられた国家」があります。中上健次は、作家として、「紀州という闇の国家」が経験した戦争を、〈定められた規約(国家)=表の国家〉との凄まじい戦争だと感じて物語を書いていきます。そこに中上健次の思想と歴史観の根底があります。『風景の系譜 佐藤春夫』のなかで中上健次は、多数者の規約を裏切っていたのは、他の誰でもなく春夫であり、殺されたのもまた春夫である。そして多数者の規約を裏切るとは、〈渠の郷里〉〈われの町〉たる紀州の持っている意味を全うする事だと言います。つまり中上健次と同じ宿命を背負った作家佐藤春夫に対する不満とアイロニーが多分に含まれているとはいえ、二十歳で転向した佐藤春夫もまた、〈渠の郷里〉〈われの町〉たる紀州の持っている意味を全うした者であり、愚者大石誠之助と同じように、「またもやこの都が生み出してしまった敗れた者」(『風景の系譜 佐藤春夫』)の一人だと中上健次は言っているのです。では、「定められた規約(国家)」との戦争は、佐藤春夫、秋幸、愚者大石誠之助他、紀州熊野の人たちだけが経験したことだったかということです。それは、太平洋戦争の結末を知っている私たちには自明なことです。〈多数者〉もまた多数者の規約を裏切った者と同じように「定められた規約(国家)」によって殺されるのです。
 徳川を倒して次に権力を握った明治政権=日本の近代国家は、太平洋戦争終結とともに滅びます。そして昭和26年(1951)、サンフランシスコ講和条約後、55年体制以降、現在までほぼ一貫して自民党政権による国家支配が続いています。その間、中上健次の描いた国家=路地も、戦後の再開発、バブル景気によって私たちの視界から消えたように思えます。果たしてそうでしょうか、同じように「定められた規約(国家)」との戦争も、部落差別も朝鮮、韓国人差別も消えてしまったのでしょうか。  現在の自民党安倍政権は戦後最も強権的な政権です。それは憲法9条に対する態度だけでなく、表現の自由に対する検閲が強まっている昨今の問題にも露呈します。そして貧富の格差は拡大しています。今の政治状況は、日本の近代国家が、二二六事件を境に急速に文民派が力を失っていく状況とは違うと断言できるでしょうか。また、そのことは、中曽根政権以降、顕著になった新自由主義という政治思潮が、小泉政権を経て拡大してきたことと、時を同じくしていることに注目しなければなりません。

 さて、私たちの問題です。〈多数者の規約〉の多数者とは他ならぬ私たちのことです。関東大震災で朝鮮人を虐殺したのは普通の〈多数者〉であり普通の市民です。被差別部落を差別するのも同様です。
 先日、イスラム国の指導者バグダディがアメリカに殺害されたと報道がありました。多くの日本人は、熊野に起こった戦争と同じように遠い国の出来事だと思ったのではないでしょうか。あいちトリエンナーレで起こった表現の自由の問題も、美術大学の学生たちは全くと言っていいほど無反応です。一校でも抗議の声明を発した大学があったでしょうか。一方、SNSでは、自己肯定、自己中心的な言葉ばかり並んでいます。中上健次が生きていたなら、彼は慷慨し、社会を批判し、若者を批判し、新たなる帝国主義を鋭く批判したに違いありません。むろん、『二十世紀の怪物 帝国主義』を書いた幸徳秋水も、その推薦文を書いた内村鑑三もしかりです。二人は、日清戦争に勝利し日露開戦に向かおうとする、日本中が国威発揚気分に沸き立つなかで、敢然と非戦論を展開するのです。
 私たちはもっと、今、世の中で起こっている政治状況、社会状況に切実な関心を持たなくてはなりません。日本には一度たりともフランス革命のような市民革命が起こったことはないのです。大逆事件も、幸徳秋水が直訴状を書き田中正造が明治天皇に直訴をこころみた足尾銅山鉱毒事件も、それが権力に向かう大きな社会運動につながることはありませんでした。市民の多くは、〈多数者の規約〉を破る人間を傍観するか蔑むことしかしない。それがわれわれ日本人の特性です。

 日本に起こった近代とは何であったのか、を考えることは、日本人にとって近代とは何であったかを考えることでもあります。バグダディも路地に生きる人間です。私たちの見えないところで、様相を変えた「紀州という闇の国家」が地涌の菩薩のように世界の地平に噴き出しています。近代とは何であったのか、テクノロジーは飛躍的に発展を遂げてきました。しかし、近代ほど人を殺した時代はないのです。核兵器や原発は、人類の滅亡を予感させます。近代ほど愚かであった時代はないのです。私たちは、そこで起こった真実と、人間の精神のありようを、深く知り、考え、感じることによってしか、社会や個人が抱える様々な困難な問題を越えて、次の時代に向かっていく思想を持ちえないと思います。

店主記

ご購入前にこちらをご一読ください。

この作品の購入お申込み

作品紹介

Web
書画ミュージアム

長良川画廊
アーカイブス

過去の掲載作品より随時拡張中

このページのTOPへ