幸徳秋水
Kotoku Shusui

 幸德秋水 1
 幸德秋水 2
 幸德秋水 3  幸德秋水 4
 幸德秋水 5
作家名
幸徳秋水こうとく しゅうすい
作品名
田村江東宛書簡(幸德秋水全集所収)
作品詳細
書簡寸法65.8×18.2
註釈

田村江東
明治6年(1873)~昭和14年(1939)

東京に生まれる。本名、三治。東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科卒業。中央新聞社主筆を務める。文芸誌『文壇』を国木田独歩、岩野泡鳴、加藤咄堂らと創刊。著書に『女と職業』(大空社)、『活動せる実業界之婦人』(博文館)など。

(封筒・表)
芝区神明町二十五
田村三治様
(封筒・裏)
淀橋町柏木八十九 幸德傳次郎

(書簡)
拝啓御無沙汰申訳がない
今日君の名刺を平民社から
届けてよこした久しく会
はないからつもる話しもある
殊に御用とあれば直ぐ
御尋ねしたくて堪らないが
獄中から持越しの病気が
今以て平癒せず少し快く
          なると思ふと下痢を起すので
矢張臥床して居る始末
尤も二時間や三時間や出
られないこともないが電車
はひどく疲れるのと動揺が
腸に悪いので何處へも
御無沙汰してる甚だ済
まないが一日新聞社がハねて
から新宿御来電(是は故緑雨が拵へた新熟語だ
)  は願はれまいか尤も僕も 
   近日平民社まで行たいと
    思つて居るから午前中に
君の宅か社かへ尋ねても
よいから何時居るか一寸
知らせてくれ玉へ 
       万縷は逢て話さう
左様なら
九月十日 (したたむ) 秋水拝
  江東老兄

【後記】
 幸徳秋水が処刑されたのは、明治という時代が終わりを告げようとする明治44年(1911)1月18日です。日本はその前年の明治43年(1910)8月、韓国を併合する。近代国家日本はその後、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と突き進み、終には日本のほぼ全域が空爆や機銃掃射にさらされ、数多くの都市が焼け野原となり、日中戦争と太平洋戦争を併せて310万人(厚生省社会・援護局援護50年史編集委員会)の日本人が命を失います。明治22年(1889)、大日本帝国憲法が発付されてから僅か56年後のことです。日本に誕生した近代国家は、日本の歴史上かつてない犠牲を国民に与え、日本の歴史上初めて他国に占領され滅亡するのです。それは日本人の営みのなかで、最も激しい経験であったといえると思います。
 私は、明治20年代前半に近代国家としての体裁を整えた日本が、世界的な帝国主義の時代にあって、それに追随するのは必然であったという歴史観を明とするなら、幸德秋水他24名が死刑判決を受けた大逆事件(12名が天皇の恩赦によ無期刑に減刑、内、5名獄死)、関東大震災直後に起こった朝鮮人虐殺事件、大杉栄と伊藤野枝、大杉栄の甥橘宗一の3名が憲兵隊憲兵によって殺害された大杉事件、社会主義者ら13名が警察、軍によって殺害された亀戸事件、そして被差別部落問題は、その暗を象徴すると思います。そしてその暗のなかにこそ、日本の近代の本質が、同時に日本人の本質が隠されていると思います。このことを最も深く洞察していたのは、あるいは血肉にし、炙り出すように小説を書いたのは作家の中上健次です。中上健次は、紀州新宮の被差別部落の出身です。大逆事件に連座し死刑になった大石誠之助、成石平四郎、死刑判決後無期刑に減刑された峰尾節堂(獄死)、高木顕明(獄死)、崎久保誓一、成石勘三郎の6名も、中上健次と同じ紀州新宮の出身、あるいは紀州新宮の社会主義運動や部落解放運動に関わった人たちです。中上文学を代表する三部作、『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』は、紀州熊野の被差別部落=「路地」を故郷にした人たちの積み重なる怨念のような憎悪と欲望が、複雑な血縁や地縁に絡み合いうごめきながら語られる物語です。中上健次は、『風景の系譜 佐藤春夫』(初出は昭和54年「国文学」2月号。『風景の向こうへ|物語の系譜』講談社文芸文庫に所収)のなかで次のように書いています。

  佐藤春夫と私は同郷である。その春夫に「愚者の死」という詩がある。とりあえず、論じるにとば口を見つけ難いこの作家の想いのこもった詩一偏を引用して、私が彼に見る物語の系譜を顕らかにする道筋を立ててみようと思う。

愚者の死
千九百十一年一月二十二日
大石誠之助は殺されたり。

げに厳粛なる多数者の規約を
裏切る者は殺さるべきかな。

死を賭して遊戯を思ひ、
民族の歴史を知らず、
日本人ならざる者
愚なる者は殺されたり。

   「嘘(うそ)より出でし真実(まこと)なり」と
絞首台上の一語その愚を極む。

われの郷里は紀州新宮。
渠(かれ)の郷里もわれの町。

聞く、渠が郷里にして、わが郷里となる
紀州新宮の町は恐懼せりと。
うべさかしかる商人(あきんど)の町は嘆かん、
―――町民は慎めよ。
教師らは国の歴史を更にまた説けよ。

 この愚者大石誠之助が処刑された「千九百十一」は明治四十四年、春夫が二十歳の時である。春夫の年譜をみると、東京に出て来た翌年だった。この愚者の死によって象徴される大逆事件は〈われの郷里は紀州新宮。渠(かれ)の郷里もわれの町〉たる新宮や新宮出身の者には、はかりしれないほど多くの影響を与える。さながら、アメリカの南部の者における南北戦争の影響力と同じである。私にも同様である。いつごろからか、最初は無自覚に、そのうち自覚して、小説の舞台のことごとくを〈紀州新宮〉と覚しき土地に持っていき物を書いている者の眼には、戦争、空爆、敗戦という過ぐる戦争の影響よりももっとなまなましく大逆事件はその土地に衝撃を与え、その土地の〈規約〉を破戒したと言える。春夫は、現存する国家と、いまひとつ紀州という国家の戦争を見、敗北を見、二十歳ですでに転向していたのである。

〈げに厳粛なる多数者の規約を
   裏切る者は殺さるべきかな〉

多数者の規約とは、現存する国家の事である。それを裏切っていたのは他の誰でもなく春夫であり、殺されたのもまた春夫である。もちろん〈多数者の規約を裏切る〉とは、大逆事件の表立った意味であるクロポトキンやバクーニンの名を口にして無政府共産と舌ったらずの思想を持ち、天皇暗殺を謀議していたという事では決してない。〈渠の郷里〉〈われの町〉たる紀州の持っている意味を全うする事である。紀州とは一体何だろうか?
  春夫の故郷であり、愚者の故郷である紀州新宮は、紀伊国牟婁郡熊野の里の事でもある。熊野とは、古事記神武東征の条りに〈大熊髪(ほの)かに出で入りてすなはち失せき。ここに神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)、倐忽(にほ)かに惑(そ)えまし、また御軍も皆惑えて伏しき〉とある熊の瘴気に満ちた土地である。いつも紀州熊野は絶えず闇の中にある。紀州は、〈天つ神の御子、すなはち窹(さ)め起きて、「長く寝つるかも」と詔りたまひき。故、その横刀を受け取りたまひし時、その熊野の山の荒ぶる神、自ら皆切り仆(たふ)さえき〉と言うその時から、敗れた者やおとしめられた者の想いや、その敗れた者らそのものが無時間的に集まり、物語り、それらが力となって渦巻き、観念としての国家をきずくのである。敗れた者の怨霊や物語が、島国の海に突き出したようなふぐりのような形、男根のような形のこの半島、紀州に落葉のように重なり、腐敗する。
  つまり、ここは敗れた者、おとしめられた者、不具の者、異形の者、死んだ者の視線でつくられた国家である。可視の状態になると限らず定められた規約〈国家〉と抵触せざるをえない物語の渦巻く土地である。春夫が、二十歳の時、出郷した東京で知った同郷の愚者の死によって象徴される明治四十四年の大逆事件は、何度目かの、紀州という闇の国家の〈定められた規約(国家)との抵触、戦争であったと言える。〉

 そして中上健次は次のように語ります。 《戦後に紀州新宮に生まれた私に、第二次世界大戦、太平洋戦争は、存在しなかったとさえ思えるのである。というのは、熊野、紀州新宮が経験した戦争とはあの大逆事件でしかない。》(『風景の系譜 佐藤春夫』)。
 中上健次の三部作、『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』の主人公の名「秋幸」は、幸徳秋水を捩(もじ)ったものだともいわれます。中上健次は、この三部作、また『化粧』、『千年の愉楽』、『日輪の翼』、『水の女』『紀伊物語』など、遺作となった『異族』にいたるまで、その作品群の根っこにはことごとく大逆事件があり、部落差別があり、「敗れた者、おとしめられた者、不具の者、異形の者、死んだ者の視線でつくられた国家」があります。中上健次は、作家として、「紀州という闇の国家」が経験した戦争を、〈定められた規約(国家)=表の国家〉との凄まじい戦争だと感じて物語を書いていきます。そこに中上健次の思想と歴史観の根底があります。『風景の系譜 佐藤春夫』のなかで中上健次は、多数者の規約を裏切っていたのは、他の誰でもなく春夫であり、殺されたのもまた春夫である。そして多数者の規約を裏切るとは、〈渠の郷里〉〈われの町〉たる紀州の持っている意味を全うする事だと言います。つまり中上健次と同じ宿命を背負った作家佐藤春夫に対する不満とアイロニーが多分に含まれているとはいえ、二十歳で転向した佐藤春夫もまた、〈渠の郷里〉〈われの町〉たる紀州の持っている意味を全うした者であり、愚者大石誠之助と同じように、「またもやこの都が生み出してしまった敗れた者」(『風景の系譜 佐藤春夫』)の一人だと中上健次は言っているのです。では、「定められた規約(国家)」との戦争は、佐藤春夫、秋幸、愚者大石誠之助他、紀州熊野の人たちだけが経験したことだったかということです。それは、太平洋戦争の結末を知っている私たちには自明なことです。〈多数者〉もまた多数者の規約を裏切った者と同じように「定められた規約(国家)」によって殺されるのです。
 徳川を倒して次に権力を握った明治政権=日本の近代国家は、太平洋戦争終結とともに滅びます。そして昭和26年(1951)、サンフランシスコ講和条約後、55年体制以降、現在までほぼ一貫して自民党政権による国家支配が続いています。その間、中上健次の描いた国家=路地も、戦後の再開発、バブル景気によって私たちの視界から消えたように思えます。果たしてそうでしょうか、同じように「定められた規約(国家)」との戦争も、部落差別も朝鮮、韓国人差別も消えてしまったのでしょうか。  現在の自民党安倍政権は戦後最も強権的な政権です。それは憲法9条に対する態度だけでなく、表現の自由に対する検閲が強まっている昨今の問題にも露呈します。そして貧富の格差は拡大しています。今の政治状況は、日本の近代国家が、二二六事件を境に急速に文民派が力を失っていく状況とは違うと断言できるでしょうか。また、そのことは、中曽根政権以降、顕著になった新自由主義という政治思潮が、小泉政権を経て拡大してきたことと、時を同じくしていることに注目しなければなりません。

 さて、私たちの問題です。〈多数者の規約〉の多数者とは他ならぬ私たちのことです。関東大震災で朝鮮人を虐殺したのは普通の〈多数者〉であり普通の市民です。被差別部落を差別するのも同様です。
 先日、イスラム国の指導者バグダディがアメリカに殺害されたと報道がありました。多くの日本人は、熊野に起こった戦争と同じように遠い国の出来事だと思ったのではないでしょうか。あいちトリエンナーレで起こった表現の自由の問題も、美術大学の学生たちは全くと言っていいほど無反応です。一校でも抗議の声明を発した大学があったでしょうか。一方、SNSでは、自己肯定、自己中心的な言葉ばかり並んでいます。中上健次が生きていたなら、彼は慷慨し、社会を批判し、若者を批判し、新たなる帝国主義を鋭く批判したに違いありません。むろん、『二十世紀の怪物 帝国主義』を書いた幸徳秋水も、その推薦文を書いた内村鑑三もしかりです。二人は、日清戦争に勝利し日露開戦に向かおうとする、日本中が国威発揚気分に沸き立つなかで、敢然と非戦論を展開するのです。
 私たちはもっと、今、世の中で起こっている政治状況、社会状況に切実な関心を持たなくてはなりません。日本には一度たりともフランス革命のような市民革命が起こったことはないのです。大逆事件も、幸徳秋水が直訴状を書き田中正造が明治天皇に直訴をこころみた足尾銅山鉱毒事件も、それが権力に向かう大きな社会運動につながることはありませんでした。市民の多くは、〈多数者の規約〉を破る人間を傍観するか蔑むことしかしない。それがわれわれ日本人の特性です。

 日本に起こった近代とは何であったのか、を考えることは、日本人にとって近代とは何であったかを考えることでもあります。バグダディも路地に生きる人間です。私たちの見えないところで、様相を変えた「紀州という闇の国家」が地涌の菩薩のように世界の地平に噴き出しています。近代とは何であったのか、テクノロジーは飛躍的に発展を遂げてきました。しかし、近代ほど人を殺した時代はないのです。核兵器や原発は、人類の滅亡を予感させます。近代ほど愚かであった時代はないのです。私たちは、そこで起こった真実と、人間の精神のありようを、深く知り、考え、感じることによってしか、社会や個人が抱える様々な困難な問題を越えて、次の時代に向かっていく思想を持ちえないと思います。

店主記