D-524 堺利彦
Sakai Toshihiko

 堺利彦 1
 堺利彦 2
作家名
D-524 堺利彦さかい としひこ
作品名
幸徳秋水獄中懐母之詩
価格
120,000円(税込)
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 合箱
  本紙寸法33×130.5
全体寸法(胴幅)45.8×205㎝
作家略歴

堺利彦
明治3年(1871)~昭和8年(1933)

豊前小倉藩の下級武士堺得司の三男として豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。号、枯川。豊津中学校(現在の育徳館高校)を卒業。上京後、第一高等中学校入学するが中退。大阪で高等小学校教員、福岡で福岡日日新聞記者などを勤める。その後、同郷の末松謙澄に招かれて東京の毛利家編輯所で『防長回天史』の編纂に従事、同僚の山路愛山らと親交を深める。明治32年(1899)、「万朝報」入社。明治36年(1903)10月10日、日露戦争開戦論へ転換した「万朝報」を幸徳秋水、内村鑑三とともに退社。同年 10月 27日、幸徳秋水と「平民社」を結成し『平民新聞』を発刊、創刊号で〈平民主義、社会主義、平和主義の理想郷に到達せしむるの一機関〉と宣言し非戦論の論陣を張る。明治37年(1904)、創刊1周年記念号に幸徳と共訳で『共産党宣言』を発表。明治39年(1906)、片山潜らと日本最初の合法的社会主義政党である「日本社会党」を結成。明治41年(1908)6月、赤旗事件(「赤旗事件の回顧 堺利彦」https://www.aozora.gr.jp/cards/000164/files/4310_7025.html)により検挙され入獄。明治43年(1910)9月釈放され、同じく赤旗事件により投獄した荒畑寒村、大杉栄らとともに同年の幸徳事件での逮捕は免れる。明治43年(1910)、厳しい思想弾圧の下で生活に困窮する同志を支えるため代筆、文章代理を業とする「売文社」を設立。大杉栄、荒畑寒村、高畠素之、山川均、橋浦時雄、和田久太郎、白柳秀湖、山口孤剣などが参加した。大正11年(1922)、山川均、近藤栄蔵、野坂参三、徳田球一らと「日本共産党」を設立、初代委員長に就任する。大正12年(1923)6月5日、第一次共産党事件で検挙、同年12月24日保釈後、「日本共産党」から離れ無産政党運動に向かう。昭和2年(1927)、山川均らと『労農』を創刊。昭和3年(1928)、鈴木茂三郎らと無産大衆党を結成。日本農民党、日本労農党などと合同後の「日本大衆党」で東京市会議員に立候補し最高点で当選する。昭和6年(1931)、「全国労農大衆党」の結成に参加、満州事変に際し同党の「対支出兵反対闘争委員会委員長」に就任する。堺利彦は、「全国労農大衆党」の結党大会にあたり「僕は病床にゐて諸君の帝国主義戦争反対の叫びの中に死ぬ事を光栄とす」とする宣言を寄せ、最後まで社会民主主義と反戦の姿勢を貫いた。

コンディション他

鳩鳥喚晴煙樹昏 鳩鳥晴を喚んで煙樹昏し
愁聽點滴欲消魂 点滴を愁い聴いて魂消えんと欲す
風々雨々家山夕 風々雨々家山の夕
七十阿孃泣倚門 七十阿嬢門に倚って泣く
幸徳秋水獄中懐母之詩

(現代語訳)
鳩は晴雨を知らせる鳥だというが、いまその鳩は雨に煙る木陰で頻りに鳴いている。耳を澄ませると霤(あまだれ)に落ちる点滴が腸を掻きむしるよう。というのも、雨につけ風につけ、今年七十になった老母が、息子の帰るのを故郷で待ち詫びているからだ。鬱陶しい獄中での感懐、ある人の句に「哀しみの有るを告ぐるや ことごとく血を成す、試みに読むもの、人として断腸せざるはなし」とあるが、移して以てこの詩の評に足るだろう。

明治43年11月10日、市ヶ谷監獄から母多治に宛てた詩。幸徳秋水は、翌明治44年1月24日に処刑される。

(四万十市ホームページ「幸徳秋水広場」より転載)

本紙に若干小折れ。

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