石川丈山 Ishikawa Jozan

天正11年(1583) ~寛文12年(1672)

参河国碧海郡泉郷(現在の愛知県安城市)に徳川の家臣石川家に生まれる。幼名、孫介。元服後、嘉右衛門重之。別号、大拙、烏鱗子、東渓、山木山材、凹凸、六六山人、藪里翁、三足老人など。関ヶ原の戦いより家康に仕え、徳川家康の近侍となる。大坂夏の陣で、禁令に反して軍功を上げるが、禁令を破ったかどで蟄居を命じられ、浪人となり妙心寺に入る。元和3年(1617)頃、江戸で一人いた母が病気となり江戸へ出る。江戸滞在中、林羅山より、京都の藤原惺窩に師事することを勧められ、母をともない京都に戻り、藤原惺窩に入門し朱子学を学ぶ。元和4年(1618)36歳の時、紀伊の浅野長晟侯に仕官するが数ヶ月で帰京。再び、元和9年(1623)、広島に転封された浅野長晟侯に仕官する。寛永14年(1637)、京都に戻り、相国寺畔の睡竹堂を建て住む。寛永18年(1641)、京都一乗寺に「詩仙堂」を建て、没するまでの約30年間を住む。詩文に秀で、書家であり、茶人であり、造園家であり、江戸時代初期を代表する文化人。松花堂昭乗と佐川田喜六とは特に親しく、京田辺市の一休寺(酬恩庵)の庭園は3人の合作と伝えられる。

石川丈山 佐川田喜六昌俊宛書
佐川田喜六昌俊宛書

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