松永貞徳(1571~1653)、西山宗因(1605~1682)、北村季吟(1624~1705)らにより庶民詩として各地に根付いていった俳諧は、松尾芭蕉(1644~1694)によってより高次な芸術世界として完成されていきます。芭蕉没後、その「蕉風」と呼ばれる芭蕉の俳諧の持つ魅力やおもしろさを、理論的にわかりやすく説明し、だれでも作れる平明な俳諧をめざし全国に広めて行ったのが弟子の各務支考(1665~1731)です。支考は優れた俳人であったと同時に優れた理論家でした。支考は北陸、近畿などへ度々行脚し、芭蕉の追悼行事、夜話と呼ばれる講話などを通しての俳諧指導、句集や理論書を多く出版し、蕉風俳諧の伝播に努め、各地に多くの門人を輩出しました。支考の後継者となった門人の仙石廬元坊(1688~1747)は、師である支考の教えに従い、東北から九州に及ぶ行脚を通してさらに蕉門勢力の拡大に力をそそぎました。これらの活動は、弟子から弟子へと受け継がれ、美濃の支考の居、獅子庵を中心に各地に俳壇が育ち全国にその隆盛を誇っていくことになります。この一派を、支考の生地であり活動の拠点であった美濃に因んで、「美濃派」、または「獅子門」と呼び、その活動は現代まで脈々と続いています。
各務支考肖像 渡辺華山筆 木版
各務支考が六歳から一九歳まで過ごした岐阜市北野の大智寺
支考が晩年に住んだ獅子庵 -改修(2014年)前
開館15周年記念特別展 芭蕉と支考 ―その旅のこころ―(岐阜市歴史博物館)より転載
芭蕉といえば俳句(発句)が思い浮かぶ。しかし、芭蕉自身は「俳諧(連句)においては老翁が骨髄」と語り、むしろ連句に自負心をもっていた。支考も同じく連句指導を得意とし、行脚した先々でその地の俳人たちと連句を制作している。連句とは、複数の人が一座して、五七五の長句と七七の短句を交互に付けすすめて一定の句数の作品をつくる、共同制作の文芸である。芭蕉は三十六句を連ねる「歌仙」を好み、支考は二十四句つづける「短歌行」などを創始した。一座のなかには、芭蕉や支考のようなかじ取り役(宗匠)がいて、作品全体の構成を考えて一句一句の添削や吟味を行う。作るにあたっては、内容に変化と抑揚をつけ、また全体的統一をもたせるために、ルールが定められている。たとえば同じ題材の繰り返しを制約したり、月や花を詠む句の位置を定めるなどである。連句の最初の句(発句)が独立したのが、今日の俳句にあたる。追善や奉納などのために連句を巻く本式の俳席には、一定の作法があった。行脚と芭蕉追善行事を蕉風伝播の基本方法とした支考にとって、地域の宗匠としての披露(立机式)や追善などの儀式俳諧は、重要な意味をもった。支考は、俳席での心得を示す「五条式」や、句を書きとめる懐紙の方式、句を付けるときの作法、懐紙などを載せる文台の規格などについて『俳諧十論』『十論為弁抄』などに記しているが、その文台は芭蕉の二見文台をふまえたものである。支考の流れをくんで現在も活動する「獅子門」では、代々の宗匠たちが口伝により俳席の作法を伝えてきた。芭蕉忌・支考忌・立机式などに興行される正式俳諧での、懐紙の書き方、座の運び方などの諸作法には、支考以来の古式をみることができる。俳席正面の床には、現在では芭蕉木像を中心にしてその背後の壁に天神像・三ちょう図の二幅を飾るが、江戸時代末の記録によると、中央に天神像、左右に三ちょう図と芭蕉筆「あかあかと日はつれなくも秋の風」の三幅が掛けられた。それらの什器は明治二十四年(1981)の濃尾震災で失われ、現在の什器はその後の寄贈にかかるものである。