渡辺清
Watanabe Kiyoshi
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- 作家名
- 渡辺清
わたなべ きよし - 作品名
- 桜井の別れ
- 作品詳細
- 掛け軸 絹本彩色 緞子裂 合箱
本紙寸法39×99cm
全体寸法58.5×185.3㎝ - 註釈
桜井の別れ(楠木正成、正行父子)
鎌倉幕府は倒れ、天皇親政である建武の新政が始まる。正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受けていた。建武2年(1335)、新政に反旗を翻した足利尊氏は、後醍醐天皇を比叡山へ追いやるが、後醍醐側の反攻により九州に駆逐される。建武3年(1336)、尊氏が九州で軍勢を整え数十万の兵をもって再び京都へ迫ると、正成は義貞の器量を疑い、後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するか、いったんは都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにすべきだと進言するが、いずれも聞き入れられなかった。死を覚悟した正成は、湊川の戦場に赴くことになった。その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げる。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げる。
武人のこころを伝える美談として、あるいは天皇への忠誠、滅私奉公の精神を教える訓話として、戦前までは知らぬ人はいない『太平記』の名場面のひとつです。現代の価値観はさておき、日本の古典を題材にした絵画として、また古き日本人のこころを感じる絵画として、復古大和絵の画家、渡辺清の価値ある優品であると私は思います。