大谷句佛
Otani Kubutsu
- 作家名
- 大谷句佛 おおたに くぶつ
- 作品名
- 俳句画賛
- 作品詳細
- 掛け軸 絹本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法61.7×34.7
全体寸法103.8×144㎝ - 註釈
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【原文】
行誡大徳、聾者(ろうしゃ)となりて
日々なしくつしの往生を遂
くと。貧衲(ひんのう)、往年隻脚(せききゃく)を疾(や)
んて、大徳の顰(ひそ)みに倣ふ。頃日(けいじつ)、人
あり。衲か境遇を評して、宗門
内外の人々に忘らるゝと云(いふ)。
言也(げんや)尤(もっとも)我意を得たり。依而(よりて)、
拙画を描きて一句をものす。
骸骨の娑婆に
残りて冬こもり【訳文】
浄土宗の福田行誡師は、晩年に聾者となられたので、毎日、いやなこと、うるさいことは聞くことがなく、それはまるで、なし崩しに往生を遂げられたようなものであった。
わたしは、むかしから、片足をわずらっていたので、福田師のやりかたにならって、閉門蟄居し、世俗のことは聞かないようにしようと思った。先日、ある人が、わたしの境遇について、宗門内外の人々に忘れられている、と評した。その言葉は、もっともわたしの気持ちにかなっている。よって、拙い絵を描いて一句よんだ。
骸骨の娑婆に
残りて冬こもり
(わたしには、もはやこの世になにも執着することはない。ただこのむなしいむくろを娑婆に残して冬籠もりしているだけだ。)行誡大徳―福田行誡のこと。
福田行誡
文化6年(1809)~明治21(1888)浄土宗伝通院学頭、増上寺法主、知恩院門主、浄土宗管長。東京豊島に生まれる。通称、高徳。諱、初め大堂。字、普阿。号、建蓮社立誉。6歳で小石川伝通院にて出家。19歳の時、京都に出て、嵯峨正定院立道に宗学を、比叡山慧澄に天台学を学ぶ。排仏毀釈に対し、諸宗の僧を糾合し「東京諸宗同盟会」を組織する。明治13年(1880)、島田蕃根、獅岳快猛らと『縮刷大蔵経』を編纂。
貧衲―僧侶の自称。