鄧州全忠(南天棒)
Nantenbou

 鄧州全忠 (南天棒) 1
 鄧州全忠 (南天棒) 2
 鄧州全忠 (南天棒) 3 鄧州全忠 (南天棒) 4
作家名
鄧州全忠 (南天棒) なんてんぼう
作品名
棒画賛
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 合箱
本紙寸法39.6×142.5
全体寸法51.4(胴幅)×203 ㎝
註釈

《道得南天棒道不得南天》 ●●●南天棒鄧州(花押)

いい得るも南天棒、いい得ざるも南天棒

三二 南天棒の由来

 ワシも生まれるときから、南天棒じゃなかった。これは三尺五寸の南天の棒をかついであるくもんだから、人がつけたアダ名サ。ワシの幼名は慶助で、のちに父がワシ孝心をめでて孝次郎と改めた。それから寺の小僧になったとき師匠が全忠と安名した。また転位のとき、道号を鄧州とつけた。それに羅山老師から印可のとき、白崖窟という室号をもらった。みんなワシを南天棒とよぶが、本名をいえば、白崖窟鄧州全忠だ。
 ワシは元来、中国の慧忠国師を崇拝しておる。慧忠国師はサ、南陽県鄧州の白崖山欓子谷に庵居して四十年、山を一歩も下らなかったが、その道風は帝都にきこえ、ついに粛宗、代宗両帝の師となった。それでワシの塔処は南陽塔とした。ワシは忠孝をかついで、つねに全国を行脚し、〈碧巌録〉は、かたじけなくも陛下の天覧を賜わり、これも「忠」から生まれたワシの奉公の一片だ。
 かついであるいた南天棒か。これはワシが一八七三年(明治六年)九州巡回中、宮崎から大分にいたる国境で、ある百姓家の牛小屋のすみから、ニョロリッと道のほうへでておる南天があるじゃないか。ああ大きい南天だなあ、と、飛びつくほどほしくなった。あれで竹篦警棒をつくり、本当の人間を打ち出したい、なんとかして貰えまいものだろうかと思って、同行の天恵、恵範和尚らを道に待たせておいて、牛小屋の前で大豆を干しておった家の主人に、
 「こりゃじつに見事な南天じゃのう」
と、言うと、主人は得意らしく、
「この南天は先祖が植えたということで、もう二百年あまりもたっております」 と、自慢顔だ。そこでワシが、
「こうして牛小屋の隅におけば、ただの南天だ。これから何年かの寿命で、しまいには枯れる。枯れりゃ、ただ、家内の者らが惜しいことをしたというて、風呂の薪になってしまうばかりじゃ。これがワシの手に入れば、一つの法期となって、万世までこの南天が鳴りわたるが、どうじゃ、ワシにくれんか」
と、いうと、その主人は惜しそうにしていたが、
「いかさま、おっしゃるとおりだ。いまお前さまの手にわたれば、南天もこれまでに大きくなった甲斐があるというものサ、ああよろしい、差し上げましょう」
と、山鋸を持ってきてサ、ズイコズイコと引ききって手ごろの棒にしてくれた。ワシは南天が伐られるあいだ合掌して、心経を繰り返し一心に読んだ。そして、一喝を呈し、
「われ、二百余年の寿をたもつ汝に、大死一番を活用せずんばおかじ」
と、かたく誓った。そして切ったあとの根には、大悲咒一巻を回向した。
 そこでワシはその南天をかついでサ、鬼の首でもとったような気持ちでからに、主人には厚く礼をのべて出てくると、待ちつかれていた二人は、太い南天におどろきながら、
「貴公は、そんなものを何にするつもりか」
と、問うから、ワシは、
「これがワシの竹篦じゃ、これで、天下の衲僧を打出するのだ」
と、いうと、
「それじゃ貴公は南天棒じゃないかなあ」
と、期せずして三人が一緒に、「南天棒」といって大笑いした。それからの道中は、ワシを「大成寺さん」とも「鄧州さん」とも言わず、「南天棒、南天棒」と呼んだ。だから、「南天棒」の名付け親は、かの二人だ。この南天の棒は、後に三尺五寸の長さに切って、「臨機不譲師(きにのぞんでしにゆらず)」、真理、悟りの戦いにおいては、師たりといえども許さん、の五文字をきざみこんだ。これから、この南天棒が、雨を打ち風を切り、門下三千人を身ぶるいさせただ。
 道得るも南天棒、道不得も南天棒、禅がわかったといっても、いやまだまだとぬかしても、打ちのめした。本当の禅の道、悟りは、ちょっとでも尻をすえてなるものか、入ればいよいよ深し、悟りは得ては得て、得ては捨て、無所得に徹しきらんことにはサ。人間というものの真価は、、ここでゆきづまりというところはない。打てばどんどん進むだ。だから打って打って打ち抜くことだ。

(南天棒行脚録 春見文勝編)