南天棒 Nantenbou
天保10年(1839)~大正14年(1925)
長崎県上松浦郡唐津十人町に生まれる。道号、鄧州。法諱、全忠。室号、白崖窟。幼名慶助。俗名中原。父は小笠原藩士塩田寿兵衛、母は喜多子。7歳のとき、母の死に際し、《母は死んだ。それで人の死ぬということがわからん。どうして母は死んだのか、なぜ母はものをいわんのか、なぜ体は冷え切ってしまったのか、人間はみなこうしたものか》と世の無常を感じ、死の根源がわかれば母の供養ができるのではないかと道念の思い兆す。嘉永3年(1850)12歳で平戸の雄香寺麗宗のもとで得度。麗宗和尚の「恩をすてて無為に入るは、真実の報恩者なり。」の垂示に大いに発奮し、一切の人情を捨てて一心に仏道に専念することを誓う。安政3年(1856)18歳、四書五経、漢詩、仏典修学等に研鑽すること7年を経て、臨済録の「道流(修行者)、出家児は、しばらく学道を要せよ。ただ山僧(臨済のこと)の如きんば、往日かつて毘尼(戒律)の中に向かって心をとどめ、またかって経論に於いて尋討す。後に、まさに是れ済世の薬、表顕の説なることを知って、遂に乃ち一時に抛却して、即ち道を訪ね禅に参ず。後に大善知識(大老師)に遇うて、まさに乃ち道眼分明にして、始めて天下の老和尚を識得して、其の邪正を知る。是れ娘生下にして、すなわち会するにあらず、還って是れ体究錬磨して、一朝に自ら省す(大悟する)。」の言葉に、《全く臨済のいうごとく、仏経祖録は理事(理論と事実)かね説くも、みだりに学相(理屈)をたずねるにとどまる。なにほど読んでも、ついに他山の石だ。畢竟、画にかいた餅だわい。腹はふくれん。こんなものに拘泥していては、いつまでしても、安心はえられんわい》と忽然と奮起し、《祖師伝来の不立文字の禅に参得して、立処に安心立命ぜねばならん》と、京都八幡円福僧堂万松老師、阿波永福寺鬼文静老師、久留米梅林僧堂羅山老師のもとで参禅修行、白隠下隠山卓州の二大禅風を探求せざれば真禅にあらずと天下の叢林を行脚歴参する。元治2年(1865)27歳、羅山老師の印可を受ける。明治2年(1869)31歳、山口県徳山大成寺に晋山。明治7年(1874)36歳と38歳の両年、雲水時代に問答を求めて参叩した老師24人に再び法戦を交えるべく各地僧堂を歴参する。明治17年(1884)46歳、本山の特命により麻布曹渓寺に東京花園禅院選仏道場を創設。無門関を提唱する。明治24年(1891)53歳、松島瑞巌寺に晋山。明治26年(1893)55歳、本山に対し、《そもそも、このことたるや、実に本派の宗旨に於ける命脈のかかるところだ。今や国家多事、百般進歩のときにあたって、もし宗匠たる者に無眼子(智慧を持たない者)があるとしたら、これ全く我が宗をきずつける者だ。しかるに方今の宗匠(老師)と称する者、多くは文字禅、口頭禅、理窟禅、さもなければ、ただの立枯禅か、只管打坐の黙照禅だ。ことに甚だしきに至っては、古則公案の究明すらわきまえん者がある。これ宗の旨(禅の本源)を失墜する者ならずして何ぞや。それ宗匠たる者は、祖師の真風を扶起し、一箇半箇(一人半人)にても真正の学人を打出して、もって仏祖の深恩に報いなければならん。故にここに真正の老師なるか、否かを検定すべく、卓州、隠山両派の労宿(各老師)と密々に内議をとげ、宗匠検定法条目をもって、現在の老師を一々本山へ呼びよせ、不肖なれどもこの南天棒がその任にあたり、検定法の定むるところにより老師を点検して、もしも躊躇して答話に諦当(正しい答え)を欠くが如き者あれば、じきに喚鐘をとりあげ(師家の看板を剥奪)、老師の印可を褫奪して僧堂を逐い出し黒の麻衣一枚で再行脚を命ずる。かくの如く敢行してゆけば、必ず宗旨の大本源を世界に輝かし、真の老師、真の仏子(釈迦の弟子)を打出することが出来る。》と、気炎を揚げ、時の臨済宗各派の高僧、潭海玄昌、無学文奕、伽山全楞、滴水宜牧、匡道慧潭、雄香釣叟、独園承珠らの承認を得て、白隠八難透、臨済録、碧巌百則、法身、機関、言詮、難透難解、五位、十重禁、末後の牢関等、南天棒みずから、《粋に粋を抜いて、実に古今の難問を一つに集めたもの》という「宗匠検定法」を提出する。 明治35年(1902)64歳、西ノ宮海清寺に晋山。大正7年(1918)80歳、海清寺開山無因禅師の五百年遠忌法要挙行。大正14年(1925)2月12日、結跏趺坐大衆面前で坐脱立亡遷化。
全国三十三ヶ所の坐禅会の指導、臨済録、碧巌録等の提唱講義、『臨済録講義』、『碧巌集講義』、『禅の極致』、『大悟一番』等の著述、また墨蹟揮毫は十万枚を越え、山岡鉄舟、乃木希典、児玉源太郎、桂太郎、三遊亭円朝を始め参禅者三千人というまさに類い希なる傑僧であった。
南天棒にとって禅に生きるということは、《老師の使命は一箇半箇の真の仏子を打出するを以て足れり》と言うが如く、祖師の真風を扶起し、その血脈を守り、祖師伝来の不立文字の禅に参得して、衆生済度の本願を全うすることに他なかった。そして、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、国家神道への時代のうねりのなかで衰退の一途を辿っていた明治の仏教にあって、それは臨済禅の側からの仏教改革として再評価されるべきものではないか。
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