服部嵐雪、伝与謝蕪村
Hattori Ransetsu / Yosa Buson
- 作家名
- 服部嵐雪、伝与謝蕪村 はっとり らんせつ
- 作品名
- 雪中庵珍蹟
- 作品詳細
服部嵐雪
掛け軸 紙本水墨 金襴緞子裂 象牙軸
天野雨山添状 古筆了信極札 時代箱
芭蕉翁遺墨集(東京美術會舘)所載
本山竹荘翁追善美術展覧会出品
本間美術館清遠閣出陳
本紙寸法7.8×50㎝
全体寸法(胴幅)38.6×179㎝与謝蕪村
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 時代箱
本紙寸法16.7×20.6㎝
全体寸法(胴幅)24.3×102.5㎝- 註釈
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与謝蕪村
享保元年(1716)~天明3年(1783)摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)に生まれる。享保20年(1735)、この頃江戸に出る。元文2年(1737)、江戸日本橋石町の俳人、夜半亭巴人(宋阿)に内弟子として入門。寛保2年(1742)、夜半亭宋阿没。師を失い江戸を去り、同門の砂岡雁宕を頼って下総結城へ。その後、北関東、東北を約10年間、浄土宗の僧侶として放浪。延享元(1744)、宇都宮で『寛保四甲子歳旦帖』を編集、この時始めて「蕪村」と名乗る。宝暦元年(1751)、木曽路を経て京に上り、以後京都に定住。明和7年(1770)、夜半亭宋阿の跡を継ぎ、夜半亭二世を襲名。明和8年(1771)、『十宜図』を描く。天明元年((1781)、芭蕉庵を再興し、『洛東芭蕉庵再興ノ記」を揮毫、金福寺に奉納する。芭蕉と並び賞される江戸俳諧中興の祖であり、池大雅と並ぶ日本南画の大成者。
天野雨山
明治23年(1890)~昭和24年(1949)東京に生まれる。本名、英二。慶應義塾卒。『蕉風』を主宰。著書に『俳豪鳥酔』『芭蕉七部集評釈』等。
【原文】
服部嵐雪
素堂亭にて人に菊見られけるに
かくれ家やよめ菜の中に交る菊与謝蕪村
此たんさくハ野村氏の所持にして
嵐雪か真筆なり今こゝに菊の一句を添筆していよゝ
嵐翁か風塊をなくさむる物也
しら菊や呈山の雪を笠の下
丁酉秋九月 蕪村書
※丁酉‥安永6年(1777)【天野雨山添え書き】
嵐雪「かくれ家や」の句に就て
この句 百萬坊旨原の編みの「玄峰集」(寛延三年板)の「菊九章」
と題せる中に素堂亭にて人に菊見られけるに
かくれ家やよめ菜の中に交る菊と掲げ「嵐雪全集」(明治卅一年板)に、雪中庵雀志は、
山口素堂なり。よめ菜の花は菊に似よりたれど、菊は田家にまじはれども菊にいさゝかまぎれぬと、此かつしかの鄙にかくれ住とも、素堂か多能のかをりはかくれぬと賛美せしなり
と注釈を加へたる如く、六義に謂ふ「此」の発句なり。素堂はじめ不忍池畔に住みて蓮を愛し、蓮池翁なとゝ称せるが、後ち深川に移り住みて菊を愛し、また自ら栽培して年々俳友を招きたるは芭蕉・其角その他に素堂亭観菊の句あるに因って普く人の知る処なり。然して嵐雪がこの句は就中素堂に深き感銘を與へたるものと考へられ、宝永四年十月十三日嵐雪卒するに遭ひて素堂がものせし「嵐雪を悼むの辞」(素堂文集断収)の中に
嵐雪子は芭蕉の翁とひとしく、予が市中に住し
ころより逢なれて、凡みそちあまりの旧知音也(中略)
いつれの年か重陽のあしたになりて、かくれ家やよめ
なの中に残る菊、と詠せしを今にわすれす云々記せる。蓋し芭蕉が東三十三ヶ国の俳諧奉行たるべき者と称し、又吾朝の李青蓮と呼び始素堂と嵐雪の風交を物語るべき因縁深き句と云ふべし。(雨山記)
嵐雪は、真筆かつ優品で、掛け物もしっとりとして、大変よいものです。
伝蕪村の極めは、嵐雪に箔を付けようとしたともいえますし、嵐雪は、それほど人気があったともいえます。今となっては、其角にしても嵐雪にしてもめったに真筆はございませんので、伝蕪村も俳諧の諧謔性のうちと思えば、それはそれで花を添えているといえなくもございません。(笑)