吉田松陰
Yoshida Shoin

 吉田松陰 1
 吉田松陰 2
 吉田松陰 3 吉田松陰 4 吉田松陰 5
作家名
吉田松陰よしだ しょういん
作品名
子遠兄弟之文(遺書)
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 象牙軸 高島九峯箱
本紙寸法31.6 ×23.3
全体寸法(胴幅)46.6×168㎝㎝
註釈

【原文】
逢事ハ是ヤカギリノ旅ナルカ
是出私情思父婦人耳何足言然思父決不然
世尓限リナキ恨ナルラン
但不能子遠言之詳悉是所謂思父有情無辭者耳
何トナク聞ケバ涙ノ落ルナリ
(一)涙反従恥字出最妙 此志眞箇可愛豈得不足哉
イズレノ時カ恥を雪かん
思父有情無辞臨別能爲此語
可知辞自情出然有兩途辞僅
六十二字情豈千萬無量然真哀
此辞者吾与子遠兄弟而
己故手録寄之
松陰

【読み下し文】
逢う事は是れやかぎりの旅なるか世に限りなき恨なるらん
是れ私情に出でば、思父は婦人なるのみ、何ぞ言ふに足らん。然れども思父は決して然らず。但し子遠の如く之れを言ひて詳(つまびら)かに悉(つく)すこと能はず。是れ所謂、思父は情ありて辭(じ)なき者のみ。
何となく聞けば涙の落つるなりいずれの時か恥を雪(そそ)がん
涙、反つて恥の字より出ず、最も妙。此の眞箇(まことに)愛すべし、豈(あ)に泣かざるを得んや。思父は情ありて辭なし。別れに臨みて能(よ)く此の語を爲す。知るべし、辭は情より出で、兩途あるに非ざることを。辭は僅かに六十二字、情は千萬無量、然れども眞に此の辭を哀しむ者は吾れと子遠兄弟とのみ。故に手録して之を寄す。
松陰

【現代語訳】
逢事ハ是ヤカギリノ旅ナルカ世に限リナキ恨ナルラン
お会いすることはこれが最後となる旅立ちであると思うと限りなき恨みを残す旅立ちなのです。 何トナク聞ケバ涙ノ落ルナリイヅレノ時カ恥を雪かん
何となくうかがうだけでも涙が落ちることです。いったいいつこの恥をすすぐことができるのでしょうか
是が私情より出たものであるならば、品川弥二郎は女々しいということになり、言うに足らないことだ。しかし、弥二郎は決してそのような男ではない。ただ、入江杉蔵のように、これを詳しく注釈して言うこともできない。弥二郎はいわゆる心余りて言葉足らざるものであろう。涙はかえって「恥」の字から感じ取ることができる。この志はまことに尊いもので、言うに足らないなどというものではない。
弥二郎は心余りて言葉が足らない。別れに望んでこの和歌を作った。そのまごころからこの言葉が出たことがわかる。二首の和歌はわずかに六十二文字であるが、情感は千万無量である。そして、本当にこれらの和歌が哀切であるのは、わたしと弥二郎が兄弟の交わりだからである。よってこのように記して寄せる。
松蔭

※思父…品川弥二郎
品川弥二郎 天保14年(1843)~明治33年(1900)

長州藩足軽、品川弥市右衛門の長男として生まれる。名、日孜。字、思父。通称、省吾、弥吉。変名、橋本八郎、松本清熊。別号、扇洲、苦談楼、念仏庵主、苞子、春狂、五明州、花月楼、露山荘主人、尊攘堂主人。安政4年(1857)、松下村塾に入る。高杉晋作らと尊王攘夷運動に奔走し、文久2年(1862)、イギリス公使館焼討事件に参加。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀を務める。維新後は、駐独公使、宮中顧問官、枢密顧問官、第1次松方内閣内相を歴任。明治20年(1887)、吉田松陰の意思を継ぎ、京都に尊攘堂を創設。

※子遠…入江九一
入江九一
天保8年(1837)~元治元年(1864)

長州藩足軽、入江嘉伝次の長男として生まれる。名、弘致、弘毅。通称、万吉、杉蔵。字、子遠。安政4年(1857)、松下村塾に入る。安政6年(1859)、吉田松陰の老中間部詮勝暗殺計画とそれに続く伏見要駕策に、弟、野村靖(和作)とともに加担、ともに岩倉獄に投獄される。元治元年(1864)、禁門の変に参戦、槍を顔面に受け負傷し、自刃する。久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と並び、松下村塾四天王とよばれる。

この吉田松陰書簡「子遠兄弟之文」は、安政6年(1859)、江戸に召喚される直前、長州萩にて親戚門下諸友に決別の遺書として書き与えた貴重な真蹟の一つである。 吉田松陰全集(山口県教育会編纂・岩波書店)第9巻に、当書簡とほぼ同類の書簡(「品川思父に輿ふ」)が所収され、その本文中「なを東行前に親戚門下諸友に訣別のため書き与えた真蹟が若干現存しているが、これ等はこの日記本文の性質と同じ意味を有する点からして、編者が便宜本書に付載した。」の説明がある。この「品川思父に輿ふ」は『吉田松陰』(山口県教育会/平成2年)にその原本画像が掲載されている。

高島九峯
弘化3年(1846)~昭和2年(1927)

長州藩医高島良台の長男。本名、張輔。弟、得三は、画家高島北海。藩校明倫館で学び、維新後は内務省や宮内省などの諸官を歴任した。詩文に優れ、随鷗吟社の客員となり『大正詩文』に寄稿した。著書に『九峯詩鈔』がある。