島崎藤村
Shimazaki Touson

 島崎藤村 1
 島崎藤村 2
 島崎藤村 3
 島崎藤村 4
作家名
島崎藤村 しまざき とうそん
作品名
千曲川旅情の歌書幅及び書簡巻物
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 竹沢正武箱 有島生馬書簡添付
本紙寸法27.2×128.5
全体寸法(胴幅)38.3×193㎝ (巻物) 全体寸法157×26.7cm
註釈

有島生馬
明治15年(1882)~昭和49年(1974)

横浜市に生まれる。本名、壬生馬(みぶま)。別号、雨東生・十月亭。父は初代横浜税関長有島武。兄弟に作家、有島武郎、里見弴。明治36年(1903)、小諸に島崎藤村を訪ねた際に見たピサロの絵が契機となり、明治37年(1904)、東京外国語学校イタリア語科を卒業し直ぐに洋画家藤島武二に師事。明治38年(1905)、渡欧し国立ローマ美術学校に入学。明治43年(1910)に帰国し、『白樺』に「画家ポール・セザンヌ」を寄稿。大正3年(1914)、二科会創立に参加。昭和10年(1935)、日本ペンクラブ副会長に就任(会長島崎藤村)。昭和39年(1964)、文化功労者。代表作に『ケーベル博士像』『熊谷守一肖像』『大震記念』『微笑』など。『有島生馬全集』全3巻がある。

竹沢正武
明治19年(1886)~

明治34年から明治38年まで小諸義塾に学ぶ。『小諸義塾と木村熊二先生―伝記・木村熊二』(大空社 / 小山周次)のなかに回想文「小諸義塾の憶ひ出」を寄稿する。日本銀行に勤務し、『日本金融百年史』を著す。

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ 緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず 若草も藉くによしなし しろがねの衾(ふすま)の岡邊 日に溶けて淡雪流る あたゝかき光はあれど 野に滿つる香(かをり)も知らず 淺くのみ春は霞みて 麥の色わづかに靑し 旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ 暮れ行けば淺間も見えず 歌哀し佐久の草笛 千曲川いざよふ波の岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む 藤村
千曲川旅情のうたをしるす

※この書幅に書かれた「千曲川旅情の歌」は、明治33年4月刊行の『明星』創刊号に「旅情」という詩題で発表され、同年8月刊行の『落梅集』に「小諸なる古城のほとり」として収められたもので、後に刊行される『藤村詩抄』(昭和2年7月)で、「千曲川旅情の歌」と改題される。

(竹沢正武箱書き)
藤村碑建設の労をねぎらうて贈られたもの 竹沢正武箱

(有島生馬書状)
封筒表
封筒消印・昭和2年3月26日
市内日本銀行内
竹澤正武様
封筒裏
東京市麹町区下六番町拾番地
有島生馬
九段 262

拝呈 先日来一方ならぬ御厄介ニ相成難有御座申上げます。私も翌日夕刻無事帰宅致しました。山三方ニても一方ならぬ御世話ニ相成りましたから四郎ニよろしく願ひます。扨て同封之書面藤村會氣付だつたので迷開封申訳ありませんでした。尚、何卒御許し願ひます御回送申上げますから御受取下さい。先以不可絶まで 早々 三月廿五日 十月生 竹沢正武様

(竹沢うめ覚書)
藤村詩碑を置く場所を見に行った時のあとで有島さんから来た礼状です。この時に高村豊周氏、有島氏、小山周次、竹沢正武等東京在住の者と小諸在住の人達で今の場所に決まりました。其當時は今とちがって松の老樹等があって大変に好い處でした。竹沢うめ書

(島崎藤村葉書)
消印・昭和15年2月21日
市内淀橋区戸塚町二ノ一九一
竹沢正武様
麹町区六番町一三
島崎藤村

先日は御手紙拝兄ヽ小生ことまだ健康も十二分とは言えず日によって出来不出来あるような状態ゆえ今一息と思ひ立ち今朝の●車にて湯ヶ原へ養生に出かけて参ります。御手紙の御返事はいずれ湯ヶ原よりくわしく申上げることにいたします。用事のみ 2月21日

――『藤村全集』(第17巻)書簡集に所収

(島崎藤村書簡)
拝呈 過日はご来訪下され失礼いたしました。湯ヶ原の宿より御便りしたくと思いながら家内こと少々気分すぐれざりしため何用(?)に取まぎれ帰京後の今日ようやくこの手紙差し上げる仕末です。さて過日御話しありしことは山崎武君(草木屋主人)拙宅へ見えし節によく相談いたせしところ同君と大に喜ばれ一度貴兄に御面会の上万事の御打合せいたしたくく申出でられました。「会」の御趣意はその性質から申しても小生の出席は遠慮すべきかとも考へられますから貴兄と山崎君と御相談の上何卒よろしく御取はからい下さるようお願いします。会の清規のようなものは山崎君を煩はして下書を造って頂けばよかろうかと思いますし、また会の印鑑●し然るべくご用意下さるよう願います。会の置場所はご迷惑でも有島君方に願うようにしたら如何でしょう。猶左々、最初の会のため御集まりを願ったらと思う諸兄のアドレスを申上げてみます。
有島生馬君
竹沢正義君
赤坂区榎町四 山崎斌(あきら)君
四谷区塩町一ノ十三 勝本清一郎君

いろいろ申上げみたく思いますが今日は簡単に右の御便りにとどめます。草々

(昭和15年)
三月一日 雪の窻(まど)にて

――『藤村全集』(第17巻)書簡集に所収

頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。

※書簡中にある「会」とは、藤村会のこと。会の発起人には、有島生馬、竹沢正武、小山周次、山崎斌、武重薫が名を連ねた。

【後記】
小諸義塾は、明治26年11月、小諸の篤志家小山太郎の要請に応えた木村熊二を塾長として開かれた。当初は生徒20名程度の私塾であったが、明治32年に長野県から私立学校の認可を受け、最盛期には四棟の校舎が並び立ち女子学舎も新設された。教師には藤村のほか、画家の三宅克己、丸山晩霞、物理学者の鮫島晋など多彩な面々が並び、内村鑑三も講演をしている。しかし、日清、日露戦争を経て国家主義的な教育統制が強まるなかで、自由で個性を重んじる教育理念は受け入れられず、明治39年3月廃校となる。
この藤村詩書には、小諸義塾の卒業生竹沢正武氏の箱書があり、正武氏の親族と思われる竹沢うめの書付、藤村の書簡、藤村と交流が深く、『千曲川のスケッチ』の装丁も手掛けた有島生馬の書簡が添えられている。それらは、書の信頼性(真贋)を高めてくれるだけでなく、藤村とともに生きた人々の情景も私たちのこころに想起させてくれる。ここにある一幅の書は、藤村の文学や人格を感じるということだけでなく、そこに宿る明治という時代の香りのようなものを私たちに伝えてくれるのではないかと思う。