山本玄峰 Yamamoto Genpo(Yamamoto Genpou)
慶応2年(1866)~昭和36年(1961)
和歌山県本宮町湯の峰温泉に生まれる。実の父母は不明。本宮町渡瀬の岡本善蔵・とみえ夫妻に引き取られ、岡本芳吉と命名される。二十二歳のとき、失明の宣告を受け、眼病平癒を祈願して、裸足で四国遍路に出る。7回目の四国遍路の途上、行き倒れとなり、33番札所土佐雪蹊寺太玄和尚に救われ、同寺にて得度出家し、玄峰の号を受ける。滋賀県永源寺、神戸祥福寺、岡山宝福寺、岐阜虎渓山に掛錫。明治36年、太玄和尚遷化により雪蹊寺を継ぐ。明治41年、雪蹊寺を太岳和尚に譲り、京都八幡円福寺に再行脚。見性宗般老師の印可を得る。大正4年、龍沢寺に入山し、復旧に尽力。昭和3年、犬山瑞泉寺に入寺。昭和8年、名古屋覚王山日泰寺の住職となる。昭和22年、妙心寺管長に就任。花園大学改革に尽力。三島伯日荘にて遷化。戦前、戦後に掛けて、鈴木貫太郎、吉田茂、池田勇人ら政界のリーダーに影響を与え、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」のくだりは玄峰老師の発案という。「白隠の再来」「最後の禅僧」ともいわれた臨済の名僧。
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