田上菊舎 Tagami Kikusya

長門国田耕村(下関市豊北町田耕)に長府藩士田上由永の長女として生まれる。本名、道。明和5年(1768)、16歳で田耕村の村田利之助(20歳)に嫁ぐ。安永5年(1776)、夫利之助死去。安永7年(1778)、長府の獅子門美濃派俳人五精庵只山から「菊車」の俳号を授かり、最初の句文集『改稱賀章集』編む。同年、田上家に復籍。天明元年、長州萩の真宗清光寺聞心院老師のもとで剃髪得度。同年、美濃不破郡岩手(岐阜県不破郡垂井町)の獅子門美濃派道統大野是什坊の門人になるため郷土長門国豊浦(下関市)を出立。天明2年(1782)、大野是什坊に入門。同年、「奥の細道」の逆コースを辿る行脚をする。天明3年、俳号を「菊舎」へ改号。天明4年(1784)秋、4年ぶりに帰郷。天明6年(1786)、美濃政田(岐阜県本巣市政田)の獅子門美濃派俳人高木百茶坊と九州巡行、獅子門美濃派の伝播に努める。天明7年(1787)秋、一旦帰郷し、大野是什坊の病気見舞いのため美濃に向かう。寛政2年(1790)、京都東山雙林寺での傘狂主催芭蕉百回忌取越法要に参列。同年、句文集『首途(かどで)』編む。寛政5年(1793)、美濃から江戸へ巡行、同年末、大野是什坊死去。寛政8年(1796)初夏、九州巡行へ向かう。享和元年(1801)、大坂堀江の木村蒹葭堂を訪ねる。文化元年(1804)、福岡、大宰府、熊本を巡行。文化3年(1806)、京都永観堂の獅子門美濃派連塔建立式に参列。文化8年(1811)、西本願寺の親鸞聖人五百五十回忌に参詣。文化9年(1812)、「手折菊」4巻刊行。天明元年(1781)、29歳で出家して以来、諸国を行脚し、亀井南冥、費晴湖、村井琴山ら各地の文人墨客と交わり、俳諧のほか、詩歌、琴曲、書画、茶事にも秀でる。文政9年(1826)、74歳で長府にて没。

田上菊舎 富士画賛
富士画賛
田上菊舎 腹便被山水笥
腹便被山水笥
田上菊舎 墨梅図
墨梅図

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