康有為 Kou Yuui / K'ang Yu-wei / Kāng Yǒuwéi
咸豊8年(1858 / 安政5)~民国16年(1927 / 昭和2)
広東省広州府南海県銀塘郷(現在の銀河郷)蘇村に生まれる。字は広厦(こうか)。号は長素、のちに更生、更甡、晩年は、天游化人とも称し、康南海とも呼ばれる。
父達初は、小農と号し、江西省の県知事補欠に任命されるまでになるが、病気のため、11歳の康有為を残し、38歳で亡くなる。祖父賛修は、欽州州学、広州府学などで教えた挙人(官僚登用試験「科挙」の地方試験「郷試」に合格した者をいう)で、康有為が20歳の時に水害で亡くなるが、「私は幼時、孤児になり、八歳からは祖父を頼りとした。飲食のしかた、教誨(きょうかい)すべて祖父が手とり足とり教えてくれた…」(自編年譜)というように、祖父賛修から学問のみならず、人格の形成に大きな影響を受けた。
光緒2年(1876)19歳、郷試を受験するが不合格となり、「学業の成る無きを憤る」(自編年譜)と奮起、祖父の友人で、父の師でもある郷里の大儒朱次琦の礼山草堂に入門する。「吾れ九江先生を師としてより聖賢大道の諸を開くを得たり」(自編年譜)と、師朱次琦より大いに程朱学(朱子学)を学ぶ。
光緒4年(1878)21歳冬、朱次琦のもとを去り、郷里に帰る。翌5年正月、郷里の西樵山に入り、一ケ月以上眠らずに静坐する。
「白雲洞に居て、専ら道仏の書を講じ、神明を養ひ渣滓を棄て、……恣意に游思し、天上人 間の極苦極楽は皆現身にこれを試む」「五勝道を習ひ、身外に我あるを見、また我をして身 中に入らしめ、身を視ること骸のごとく、人を視ること豕のごとし」(自編年譜)。 康有為の弟子梁啓超は、康有為の仏学は「陽明学より仏学に入ったのであり、それ故 もっとも力を禅宗に得たが華厳宗を以て帰宿とした」と言う。康有為は当時の心境を、 「四部の書も大概を知り、読書を暫く厭うようになり、逆に安心立命の所を求めて静坐養心 するようになった。静坐の時、忽天地万物は皆我が一体なるを見、自ら聖人だとして欣喜し て笑った」(自編年譜)と語り、この時の体験により、康有為は、存在、非存在を越え、 自在なる真の自己を獲得する。
康有為は、朱次琦のもとを去って後10年、読書と思索と修行の日々を送る。
光諸10年(1884)27歳、『礼運注』1巻刊行。
光緒14年(1888)31歳、順天郷試を受けるため都北京にのぼる。同年、外国の脅威に瀕するにも関わらず、内政の腐敗した政治状況を憂い、皇帝に対し、1万言に及ぶという最初の上書「清帝に上る第一書」を行う。この上書は、第一、成法を変ず、第二、下情を通ずる、第三、左右を慎むの三項目からなり、第一の成法を変ずは、祖宗以来の旧法を改めて、歴史の変化に対応した新法を立てることこそ富強への道である。第二の下情を通ずるは、民意を君主に上達するものを阻んでいるものを除き、下臣が君主の前で自由に発言できるようにすべきである。第三の左右を慎むは、佞臣を退けて、忠臣を重用せよというものであった。しかし、この上書は、上達の途中で阻まれ失敗に終わる。(最初の変法自強運動)その後、翌15年9月に郷里に帰るまでの間、国事から離れ、碑文の研究に打ち込み、書論『広藝舟双輯』(光緒19年刊行)を著す。
光緒16年(1890)33歳、経学者廖平に会い、その著『知聖篇』の草稿を示される。孔子の学問をを今学と古学に分け、前者は孔子晩年の説、後者は孔子早年の説とし、古学は全て劉歆の捏造であり、今学こそ孔子の真伝であるという廖平の説に大いに共鳴する。同年、陳千秋(後に万木草堂の学長になるが、26歳で早逝)、梁啓超、徐勤が康有為を尋ね入門、翌17年、広州長興里に学堂を構え、光緒19年冬、講堂移転に伴い名称を「万木草堂」とし、多くの門人を擁するようになる。
梁啓超は、教育家としての康有為を評して次のように述べる。
先生が大政治家となれるかどうかは、私は知らないが、彼が大教育家であることは、 昭々として、はなはだ明かである。先生は教育家の精神を備えているだけでなく、教 育家の資格をも備えている。その品行は方峻であり、その威儀は厳整であり、授業の ときは、循々としてうまく誘導し、至誠の心をもってねんごろに教える。孔子の、い わゆる「人に誨(おし)えて、倦まず」というものに近い。講演のときは、大海潮の ごとく、獅子吼のごとく、学ぶ者の脳気をよく揺盪(ゆりうご)かせ、悚息(しょう そく)し感動させて、終身忘れることができない。また、常に反復して説明し、聴く 者が渙然として理に従い、心から悦んで誠(まごころ)から服するようにさせる。
先生の教育の組織は、東西各国に比べると、その完備という点では、もとより不十分なこと が多いが、しかし、中国の教育がまだ興らぬ前に、よりどころとするものがなくて、自分で創 造したのである。その心力はなんと偉大ではなかろうか。その精神を重んじ、徳育を貴び、 よく中国史の習慣を観察して、中国社会の病源を治そうとしている点では、のちに起こる者 は、みなその意図に学ばねばならないだろう。
光諸17年(1891)34歳、『新学偽経考』14巻刊行。
光緒21年(1895)38歳春、会試(郷試に合格した挙人が都で受ける試験)を受けるため上京。挙人を千二百余名の署名を集め、二度目の上書「公車上書」をする。また一方で、新聞『万国公報』(後、『中外紀聞』に改名)を創刊し在京の士大夫(科挙に合格して上級官僚)に配布するなど、次第に士大夫層の支持を得るが、上書は失敗に終わる。
光緒23年(1897)40歳12月、日本、ロシアに範をとって立憲君主制を国是とするよう求めた五度目の上書をする。翌24年正月、総理衛門(清国外務省)に出向き諸大臣と会談し変法を論じる。同年4月、光諸帝に拝謁。総理衛門章京上行走の官を授けられる。以降三ケ月余り、康有為ら変法派の献策にもとづき改革の機運が高まるが、西太后ら守旧派の抵抗に遭い、西太后の訓政が復活。光諸帝は幽閉され、変法派は、大逆不道の行為(国家反逆罪)により弾圧された。(戊戌の変法、百日維新)
康有為は、宮崎滔天、日本領事館の援助を得て、同年9月、日本に亡命する。
光諸24年(1898)41歳、『孔子改制考』21巻刊行。
光諸25年(1899)42歳2月、西太后の清朝政府の引き渡し要求に苦慮した日本政府により、国外に追放され、カナダに渡る。ビクトリアで華僑の有志を結集し「保皇会」を結成。(後、南北アメリカ、オーストラリアなどの200余りの分会ができ、100万人余りの会員を擁する大勢力となる。)同年12月、母のいる香港を経てシンガポールに渡る。翌26年、イギリス総督の庇護を受けペナンに滞在し、同年10月より再び宣統元年(1909)冬、ペナンに戻るまで、インドを皮切りに、欧州各国を遊歴。
光諸27年(1901)44歳、『中庸注』1巻刊行。
光諸31年(1905)48歳、『欧州十一国遊記』第一編第二編刊行。
宣統3年(1911)54歳5月、日本へ渡り、神戸、須磨に滞在。
民国2年(1913)56歳10月、香港に帰る。同年、『不忍雑誌』『大同書(甲乙部)』刊行。翌3年より、上海に移る。
康有為は、自らの理想世界を、孔子が理想とした「大同」の世に重ねて描いた。そし て世界は、拠乱世、升平世(小康)を経て、理想の世界、太平世(大同)に向かうの が歴史的必然であるとした。
民国14年(1926)69歳、上海に天游学院を設立。
康有為は、イギリスの天文学者J.ハーシェルの翻訳本『談天』を早くから読むなど し、天文学に関心を持っていた。康有為は、自著『諸天講』(民国19年刊行)序文で、 諸天体にある極楽世界に心を遊ばせることにより、煩悩からまぬかれ、不老不死で真 の自由な世界に至りうるという《天游の学》を述べた。
民国16年(1927 )70歳、2月28日(陽暦3月31日) 、青島で逝去。
『康有為 ユートピアの開花』(中国の人と思想11) 坂出祥伸、
『大同書』 坂出祥伸 より作成
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