安楽庵策伝 Anrakuan Sakuden
天文23年(1554)~寛永19年(1641)
策伝は僧侶として一生を過ごした人物として知られる。笑話を蒐集する土壌は、はやく小僧時代から培われたと序文にも記しているが、文学的活動は入寂までの十九年間に限られている。すでに関山和夫の『安楽庵策伝 咄の系譜』(これを増補して改題したものが『安楽庵策伝和尚の生涯』)と『説教の歴史的研究』、鈴木棠三の『安楽庵策伝ノート』に詳細な伝記考察がみられるので、ここには略伝を記しておく。
策伝は、天文二十三年(一五五四)に美濃国で生まれる。姓は金森、俗名は不詳。浄土宗西山派の僧。説教僧。策伝、日快、然空日快、然空策伝日快、日快策伝上人、安楽庵、前誓願安楽老などと名乗った。七歳(永禄三年。一五六〇)ごろに美濃国浄音寺で策堂文叔(教空)に師事して策伝と号した。十一歳(永禄七年。一五六四)ごろに山城国京都東山禅林寺の智空甫叔に学び、然空日快と号した。浄土変曼荼羅、観経曼荼羅事相教旨を覚える。二十五歳(天正六年。一五七八)ごろに山陰へ布教の旅に出て、備後、備中、安芸、備前国での十五年の布教活動をする。その後、四十一歳(文禄三年。一五九四)で和泉国堺正法寺十三世住職、四十三歳(慶長元年。一五九六)で美濃国浄音寺二十五世住職、六十歳(慶長十八年。一六一三)で山城国京都誓願寺五十五世住職となる。六十二歳(元和元年。一六一五)ごろから板倉重宗京都所司代に笑話を話しはじめる。六十三歳(元和二年。一六一六)で清涼殿で曼荼羅を進講する。六十六歳(元和五年。一六一九)で紫衣の勅許を得た。七十歳(元和九年。一六二三で住職を退き、誓願寺境内の塔頭 竹林院の茶室安楽庵に住まいを移す。同年に『醒睡笑』の序文を記す。七十五歳(寛永五年。一六二八)で『醒睡笑』八冊を板倉重宗京都所司代に献上する。七十七歳(寛永七年。一六三〇)で百種の椿の花の形状、名称、和歌など記す『百椿集』をまとめる。七十八歳(寛永八年。一六三一)から四年をかけて諸家と贈答した狂歌、和歌、俳諧をまとめた「送答控」(「策伝和尚送答控」)を残す。八十一歳(寛永十一年。一六三四)で伊達政宗に『自撰家集』(「送答控」の抜粋)を献上する。八十九歳(寛永十九年正月八日。一六四二)入寂。
略伝によると策伝は三十代まで説教層として活躍している。そのときに浄土変曼荼羅、観経曼荼羅事相教旨を話したという。その他の説教やその評判については明らかでないが、関山和夫は説教層の実力は布教活動で鍛えあげられ、策伝のうまさは広く知れ渡っていたという。また『醒睡笑』は「説教本(仏書)の性格をもって成立した」ともいう(『醒睡笑』)。説教本という見解は、当時の書籍目録をみても「仏書」には分類されず、「和書并仮名類」「狂歌集并咄本」「咄本」「咄之本」「咄の類并かる口咄シ」の項目に記載されている。作品の分類は「仏書」ではないことを明らかにする。誓願寺住職を退いた後は、烏丸光広、木下長嘯子、松永貞徳、松花堂昭乗、近衛信尋、小堀遠州、半井卜養などの文人たちと親交を深めているが、文人たちの手紙や日記などに、策伝の笑話の蒐集や板倉重宗京都所司代への『醒睡笑』の献上、『百椿集』をまとめたことに触れる記述はみられない。また、策伝は「送答控」や短冊、書簡などを残しているが、そうした隠居後の実態を知る資料はとても少ない。
『醒睡笑 全訳注』 (講談社学術文庫) 宮尾與男解説文より
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