安岡正篤 Yasuoka Masahiro(Yasuoka Seitoku)
明治31年(1898)~昭和58年(1983)
大阪市旧順慶町(大阪市中央区南船場)に堀田喜一の4男として生まれる。号、瓠堂(こどう)。少年期、春日神社神官浅見晏斎、儒学者岡村閑翁より影響を受け、『大学』など小学生時にすべて暗唱したという。大正4年(1915)18歳、安岡家の養嗣子となる。大正8年(1919)22歳、東京帝国大学法学部政治学科に入学。大正10年(1921)24歳、安岡婦美と結婚。『支那思想及び人物講和』(玄黄社)を処女出版。東京帝国大学卒業。大正11年(1922)25歳、『王陽明研究』(玄黄社)を出版。文部省に入省するが1か月ほどで辞職。北一輝、大川周明を知る。酒井忠正伯爵らと亜細亜文化協会研究所を設立。機関誌『東洋思想研究』を発刊、単独執筆する。大正13年(1924)27歳、『日本精神の研究』(玄黄社)出版。大正デモクラシーに抗して伝統的日本主義を標榜する。海軍大学校講師に招かれ、1年半にわたり武士道学を講義。昭和2年(1927)、酒井忠正の援助を得て金鶏学院開校。昭和4年(1929)32歳、『東洋倫理概論』(玄黄社)を出版。昭和6年(1931)34歳、屯田式哲学(浮薄な都市文明を離れ、大地に足を着けて東洋の哲学を学び、国家社会の為に尽くす。)実践を構想し、日本農士学校を開校する。昭和7年(1932)35歳、酒井忠正、吉田茂、荒木貞夫らを発起人に、国維会を結成。『東洋政治哲学』(玄黄社)を出版。昭和9年(1934)37歳、朝鮮総督府および満州国政府の招きで一ヶ月、王道哲学を講義。昭和11年(1936)39歳、『童心残筆』(新英社)『漢詩読本』(日本評論社)を出版。昭和12年(1937)40歳、吉川英治、乾利一らと心交協会結成。昭和13年(1938)41歳、『為政三部作』(玄黄社)を出版。半年間に渡る外遊に出発。昭和17年(1942)45歳、『世界の旅』(第一書房)を出版。昭和19年(1944)47歳、『経世瑣言全』(旺文社)を出版。小磯内閣大東亜省顧問に就任。昭和20年(1945)48歳、終戦の詔勅(玉音放送)草案を刪修。蒋介石の計らいにより戦犯逮捕を免れる。昭和21年(1946)49歳、金鶏学院、日本農士学校、解散命令を受け、財産を没収される。戦後は、昭和24年(1949)に、師友会(後に全国師友協会に改称)を設立、政財官界指導者の教化を行い、戦後保守政治の思想的支柱となった。昭和33年(1958)、憲法改正と日米安保条約賛成運動のための右翼団体連合組織、新日本協議会を設立。
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