久松真一は、明治22年(1889)、岐阜県稲葉郡長良村大字福光字八代村(現在の長良)に、大野定吉(定吉の父精平は、最初の妻きみが病死し、久松こ糸と再婚し久松家を継ぐ)の長男として生まれる。7歳のとき、祖父精平の養子となり、定吉と精平の家を行き来する少年時代を送る。明治41年(1908)、岐阜県立岐阜中学校を卒業。岐阜中学校の校長林釟蔵より、哲学者西田幾多郎の名を知り哲学を志す。第三高等学校を経て、大正元年、京都帝国大学文科大学哲学科へ進学、西田幾多郎に仏教哲学を学び感銘を受ける。大正4年(1915)、大学卒業後、アカデミックな知的学問に疑問を感じ、自己の全人格的な根本的存在にかかわる問題に苦悩する。西田幾多郎のすすめにより、京都妙心寺僧堂師家池上湘山老師に参じ、その年の臘八接心(12月8日、釈迦が悟りをひらいた日にちなんでおこなわれる座禅)によって、自己の思想を決定させる禅体験、「無相の自己」の覚証に到る。大正7年、妙心寺山内春光院の一隅に居を構える。大正8年(1919)、臨済宗大学(現花園大学)教授。昭和4年、龍谷大学教授。昭和12年(1937)、京都帝国大学助教授。昭和14年(1939)、「東洋的無」初刊。昭和16年(1941)、茶道文化の研究と人間形成を目的とした「京都大学心茶会」を創立。昭和19年には、学生たちに禅の修業を通じた実践的、主体的学問の場として「京都大学学道道場」を創立する。(この「学道道場」は後「FAS協会」と改称される。F.A.Sとは、Formless self (無相の自己) に覚めるとともに、All mankind (全人類の立場)に立ち、Superhistorical history (歴史を越えて歴史を創る)という、久松真一の世界に向けた人間のあり方についての理想を標語したものである。) 昭和21年(1946)、京都帝国大学教授。昭和23年(1948)、「絶対主体道」「茶の精神」刊行。昭和24年(1949)、京都大学を定年退官。同年、花園大学教授。昭和27年(1952)、花園大学教授退官。同年、京都市立美術大学教授。昭和32年(1957)、ロックフェラー財団の援助を受け渡米、ハーバード大学神学部客員教授として「禅と禅文化」を講義。昭和33年(1958)、米国からヨーロッパへと渡り、マルセル、ハイデッガー、ユングなど哲学者、思想家と交流、講演会を催し、東洋の哲学、文化の紹介に努める。昭和37年(1962)、春光院より京都室町に移居。昭和49年(1974)、岐阜市長良福光に移居。昭和55年(1980)、同地にて没。(著書に「絶対主体道」「東洋的無」「禅と美術」「久松真一著作集全八巻」など)
遺詠
形無き自己に覚めて不死で死し
不生で生れ三界を遊戯
今更に死すとや誰か云ふやらむ
もと不生なる我と知らずや
我死すも引導追薦葬無用
むくろは荼毘で骨なひろひそ
わが墓碑は碧落に建て碑銘をば
F A Sと深く彫まむ
大死せばくるにや及ぶ今其処で
そのまま真の臨終あはなむ