自己の全人格的な根本的存在にかかわる問題に苦悩する。
いわゆる純粋な学者は学問のために学問をなし、学者になるために学問するでもあろう。もとより当然なことである。しかし私はそうゆうつもりで学問をしたこともなければ、またしようともしなかった。のみならず学問するということは私の究極の目的でもなければ本来の関心事でもない。私にとってはいのちにかけての問題がある。これは単なる学問の問題ではない。私に死ぬか生きるかを択一的に迫り来る問題である。これは無数に可能なる個々的問題のすべてでもなければ、またその中の一つでもなく、その強調されたるものでもなくして一切の問題を蓋う唯一の問題である。私の生命の全体がそれに対って一体となって、死にものぐるいに直面する全一的な問題である。これが私に取っては真に具体的な存在問題である。これは単に私の生命の一部分たる知的な学問の問題ではなくして、私の全生命自体に課せられた生きた問題である。ここにおいて私というもの自体の存在が真剣な問題になって来る。ここでは私というものはいわゆる学問的解明の対象として客観化することのできるようなものではなくして、それ自身全体的に悩んでいる存在である。生きている問題とはかく悩んでいる存在自身にほかならぬ。あたかも死ぬか生きるかの重病に悩む医学者のごときものである。病はここでは客観的に研究さるる対象ではなくして、刻々に彼に迫り彼を脅かす彼自身の悩みである。病の具体性が医学者の研究の客観的対象になった時よりも、かえって彼自身が病む時に見られるように、問題の具体性は私自身が悩む時に見られる。私が問題を持つということは私が悩んでいるということである。私の存在はそれ自身の悩みであるから、それを対象的に扱うことはできない。私の存在は只管に悩みから脱しようとするものであり、悩みから救われようとするものである。私というものは解かなければならぬ問題自身である。かかる存在は存在といっても問題である存在であるから、それ自身存在ともいえない存在である。解かれたる問題が私の決定せられたる真の存在である。(続く)
論文集『東洋的無』(昭和14年初刊)、序文、冒頭より