尚ゝ漢和一折(ひとおり)、
珍敷令感候(めずらしくかんぜしめそうろう)
先日ほのかに申談(まうしだんじ)侯
通り、追付(おつつけ)旅立、
京よりすぐにと存侯。
たれにもしらせず侯。
貴様御存知なき分(ぶんに)
可被成(なるべく)侯。用意之事、
内ゝニ頼存(たのみぞんじ)侯。
一、此(この)状、史邦(ふみくに)へ早ゝ被遺(つかはされ)。
可被下候。いがより牡丹
取(とり)ニ参侯哉(や)。貴様御方
じゅけい花も、何とぞ
遣し度(たく)侯間、史邦へ
被仰合(おおせあはされ)可被下候。
重陽日
去来様 ばせを
[備考]所在不明につき標記の雑誌より転載する。
ほぼ二年におよぶ上方での漂泊生活を打ち切って、帰東の予定がかたまりつつあった元禄四年九月九日の一通で、去来へ内々に旅支度の用意を頼んでいる。しかし文面の主要件は、「此状」すなわち史邦に宛てて 同封した書状を届けてほしいというところにあり、その内容も、芭蕉の斡旋によって、去来・史邦両名から伊賀の芭蕉の旧主藤堂探丸に牡丹を献上することになっていた話に関するものだったと考えられる。この件の具体的な顔末については、藤堂家の家令役である中尾・浜両名に宛てた書簡383の一通によって知ることができる。
【芭蕉全図譜(解説編P215)】
先日ほのかに申談(まうしだんじ)侯通り、追付(おつつけ)[1]旅立(だち)、京よりすぐにと存侯。たれにもしらせず侯。貴様御存知(ごぞんじ)なき分(ぶんに)可被成(なるべく)侯。用意[2]之事内ゝニ頼(たのみ)存侯。
一、[3]此(この)状、史邦(ふみくに)へ早々被遺(つかはされ)。可被下候。[4]いがより牡丹取(とり)ニ参(まゐる)侯哉(や)。貴様御方(おかた)[5]じゅけい花も何とぞ遣し度(たく)侯間、史邦へ被仰合(おおせあはされ)可被下候。以上
[6]重陽日(ちょうやうび)
去来様 ばせを
尚(なほ)々[7]漢和(かんな)一折、珍敷令感(めずらしくかんぜしめ)候。
[注]
(1)江戸への旅立ち。この時点では京都を出発点と予定していたことになるが、次第に日がずれて、結果的には九月二十八日義仲寺発足となる。
(2)芭蕉自身が旅に出るためのさまざまな準備を去来に頼んだ言葉。
(3)本簡と同便で史邦に送る書状(その書状を去来から史邦へ回送することを頼んだもの)。史邦→書簡118注13。
(4)伊賀。芭蕉の旧主家藤堂探丸が当時大流行の牡丹に強い興味を持っており、芭蕉は京の両人に斡旋を頼んでいた。
(5) 寿慶花(→書簡118注4)。
(6)九月九日、重陽の節句の日。
(7)五言の漢句と七七・五七七の和句を交互に連ねる連句。一折は歌仙の前半十八句。中世以来の歴史があるが、一般には一部の人々の間で行われたにすぎない
かねて去来や史邦から芭蕉の旧主藤堂探丸に牡丹を献上する約束になっていた件が片付いたかどうか確認するための文面で、書簡118 と深いかかわりを持つ。この時期にこの件が話題になるのは、牡丹の植え時が秋分ごろ以降九月中ごろまでとされるからである。なお文頭には、上方滞在もまる二年、ようやく帰東の見通しがついた中で内々の旅支度の用意も頼んでいる。在木曾塚筆。本簡真蹟は雑誌「尚古」昭和八年第一号所載の写真版で知られるのみで、真蹟原本は未発見。
【芭蕉書簡大成P300】
今年一月の下旬、練馬区在住のK氏がわたしの研究室を来訪され、芭蕉書簡の一軸を示された。すでにカラーコピーを賜わっていたが、実際に目にしてみたら実にみごとな自筆書筒であった(本紙、縦一四.八糎×横三一.四糎)。もっともこの書筒は新出のものではなく、今から七十五年前、雑誌 「尚古」七巻一号(昭和八年一月)に写真掲載されたものである。「尚古」は大阪より刊行の、小論文なども載るが本来は書画の筆蹟類の販売目録である。翻字をしてみる。
(中略)
この書簡はすでに今栄蔵「芭蕉書簡大成」(角川書店、平成十七年)などに紹介ずみのものだが、 実物を拝見すると太字の「先日」「旅立」「貴様」「用意」「牡丹」等芭蕉の筆蹟の特色が顕著である。また「はせを」の署名も何の疑念もない。元禄四年(一六九一)重陽日(九月九日付)のもの。内容は芭蕉が元禄二年の「おくのほそ道」の旅後上方へ赴き、そのまま二年に及んでいたが、それを切りあげ江戸に帰る予定を内々に去来に知らせ、彼に旅の用意を依頼。さらに芭蕉の旧主藤堂家の現当主探丸が当時流行の牡丹に興味を持っていたため、去来からの牡丹の名花(寿慶花=厚く多重な白牡丹の一種)を史邦とも相談の上献上しようとしたもの。短簡ながら芭蕉の筆勢が躍動していて感動を覚えた。ところでこの書簡と同年同月日に凡兆光宛に出された芭蕉書簡がある。小林孔氏が平成十五年十月佐渡島開発センターで開催の第五十五回俳文学会全国大会で発表されたもので、用紙・文字の大きさや 筆勢などきわめて類似する。両書簡の関係など改めて考える必要があろう。
なお、この去来宛書簡は、深川の江東区芭蕉記念館で四月二十四日から五月二十五日まで特別展示をされる。興味のある方はぜひともご覧いただきたい。
【近世俳人短冊逍遙 三光鳥の森へ】
向井去来
慶安4年(1651)~宝永元年(1704)
儒医向井元升の二男として肥前国(長崎市興善町)に生まれる。別号に義焉子、落柿舎 。蕉門十哲の一人。貞享年間 (1684~88)に、其角を介して松尾芭蕉に入門。元禄4年 (1691)、凡兆と『猿蓑』を共編。同年、芭蕉は洛西嵯峨の去来の別荘落柿舎に滞在し『 嵯峨日記』を執筆する。篤実な人柄で同門の人々にも尊敬され、芭蕉の信頼も厚かった 。著書に、蕉風俳論の最も重要な文献といわれる『去来抄』をはじめ、『俳諧問答青根 が峰』『旅寝論』などがある。
本紙ウブなり良好。