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近代文学、哲学
C-183 高山樗牛

C-183 高山樗牛
Takayama Chogyu

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作家名
C-183 高山樗牛 たかやま ちょぎゅう
作品名
人生終に奈何
価格
180,000円(税込)
作品詳細
額装 紙本水墨 黄袋 段ボール差し箱
作品寸法69×27
額寸法84.5×30 ㎝
作家略歴

高山樗牛
明治4年(1871)~ 明治35年(1902)

山形県鶴岡に生まれる。本名、林次郎。東京帝国大学哲学科卒業。在学中の明治27年(1894)、読売新聞の懸賞小説に匿名で歴史小説『滝口入道』を応募し入選する。上田敏らと『帝国文学』を出版し編集委員を務める。卒業後、出版社博文館に入社、雑誌『太陽』の編集主幹となる。明治33年(1900)、夏目漱石と共に英国に留学する予定であったが、肺結核が悪化し断念。明治34年(1901)、東京帝国大学講師となるが、翌35年、肺結核により死去。国家主義(日本主義)的主張の一方で、ロマン主義やニーチェの影響を受けた評論を発表し、晩年は田中智学の影響を受け日蓮主義に傾倒した。

コンディション他

【原文】
人生終に如何、是れ実に一大疑問にあらずや、生きて回天の雄圖を成し、死して千歳の功名を垂る、人生之を以て盡きたりとすべきか、予甚だ之に惑ふ、生前一杯の酒を樂しむ、何ぞ須ひん、身後千載の名、人は只行樂して已まんか、予甚だ之に惑ふ、蝸牛角上に何事をか爭ふ、石火光中に此の身を寄す、人は只無常を悟って終らんか、予は甚だ之に惑ふ。吁、人生終に如何。將た人は只死するが爲に生れたるか。
 嘗て一古寺に遊ぶ檐朽ち柱傾き、破壁摧欄、僅に雨露を凌ぐ環堵廓然として空宇人を絶ち、茫々たる萋草晝尚暗く、古墳累々として其間に横れるを見、猛然として悟り喟然として嘆ず、吁、天下心を傷しむる斯くの如きものあるか、借問す、是れ誰が家の墳ぞ、弔祭永らく至らず墓塔空しく雨露の爲に朽つ、想ふに其の生れて世に在るや、沖天の雄志躍々として禁ふる能はず、天下を擧て之に與ふるも心慊焉たらざりしものも、一旦魂絶て身異物とならば苔塔墓陰、盈尺の地を守つて寂然として聲なし、人生の空然たる哀れむべきの至りならずや、後人碑を建て之に銘するは、其の心素より英名を不朽に傳へんとするにあり、然れども星遷り、世変わり之が洒掃の勞を取るの人なく、雨雪之れを碎き、風露之れを破り、今や塊然として土芥に委するも人絶えて之を顧みず、先人の功名得て而して傳ふべきなし、思一たび此に至れバ彼の廣大なる墓碑を立てゝ名の不朽を願ふものは、何等の痴愚ぞや嗚呼劫火烱然として一たび輝けば大千旦に壞す、天地又何の常か之れあらん、想ふに彼の功業を竹帛に止めて、盛名の窮きを望むものは、其の痴之れに等しきを得んや、 悟れ、一瞬の須臾なるも、千歳の久しきも、天地の無窮なるに比すれば等しく是れ一刹那なるにあらずや、名其の死と共に滅するも、死後千年を經て亡ぶるも、其の終りあるに至つては一なり、人、生を此の世に享け、一時の名を希ふ、五十年の目的遂に之に過ぎざるか、予甚だ之に惑ふ、
 功名朝露の如し、頼むべからず、人生終に奈何、藐然として流俗の毀譽に關せず、優游自適其の好む所に從ふ、樂は即ち樂なりと雖も、蟪蛄草露に終ると孰れぞや、栖々遑々、時を匡ゞし道に順ひ、仰て鳳鳴を悲み、俯して匏瓜を嘆ず、之を估うりて售うれざらんことを恐れ、之を藏めて失はんことを憂ふ、之れ正は即ち正なりと雖も、寧ろ鳥獸の營々として走生奔死するに等しきなきか、光を含み世に混じ、長統の跡を尋ね、劉子の流を汲み、濁醪一引、俯して萬物の擾々焉たるを望むは、快は即ち快なりと雖も醉生夢死、草木と何ぞ擇ばん、吁、人は空名の爲に生れたるか、將た行樂せんが爲に生れたるか、果して然らば是れ夸父日を追ふの痴を學にあらざれば禽獸草木と其の命を等ふせんと者なり、予甚だ之に惑ふ、
 南華老人は言へらく、大覺ありて其の大夢なるを知ると、佛氏は諭すらく、離慾の寂靜は四諦を悟る所以なりと、已めよ、若し人生を以て夢となさば、迷へるも悟れるも等しく是れ夢にあらずや、縱ひ身を觀じて岸頭籬根の草とし、命を論じて江邊不繋の船となすも、期する所は一の墓門にあらずや、生前の事業、夢中の觀の如く、死後の名聞、草露の如くんば、茫然たる吾が生、夫れ何くにか寄せん、大哀と謂はざるべけんや、
 嗚呼人生終に奈何、予往を顧み來を慮り、半夜惘然として吾れ我れを喪ふ。

明治二十四年六月 

樗牛

※『人生終に奈何』は、明治24年(1891)、樗牛が旧制第二高等中学校在学中の20歳の時に『文学会雑誌』創刊号に掲載されたもの。これはその貴重な直筆原稿であるが、刊本とは一部語句の相違が見られる。

額、若干傷みあり。