掛け軸 絖本水墨 緞子裂 合箱
『長良川画廊の現在と未来』所収
高知新聞記事と特集掲載
(画)
本紙寸法44.4×124
全体寸法(胴幅)57.2×176㎝
(詩)
本紙寸法14×41.5
全体寸法(胴幅)28.3×176㎝
中江兆民
弘化4年(1847)~明治34年(1901)
高知城下に土佐藩足軽中江元助の子として生まれる。名、篤介。号、青陵、秋水、南海仙漁、木強生など。慶応3年(1867)、江戸に出て深川の村上英俊の達理堂に入塾するが品行不良で破門され、やむなくカトリック僧侶の手伝いをしながらフランス語を学ぶ。明治2年(1869)、福地源一郎の日新社の塾頭となりフランス語を教える。明治4 年(1871)、政府留学生として渡仏、哲学、史学、文学を学ぶ。明治7年(1874)、帰国。明治8年(1875)、東京外国語学校校長になるが3ヶ月で辞任する。明治14年(1881)、西園寺公望の東洋自由新聞の主筆となり、社説のほとんどすべてを執筆し、自由民権運動の理論的指導者となる。明治15年(1882)、『社会契約論』の漢文訳『民約訳解』を刊行。明治20年(1887)、保安条例により東京から追放され大阪へ移る。『三酔人経綸問答』刊行。明治23年(1890)、第1回衆議院議員選挙で大阪第4区より当選するが翌24年辞職。明治26年(1893)、「北海道山林組」をはじめ、以降明治32年(1899)頃まで次々事業を計画するがことごとく失敗する。明治31年(1898)、ほとんど一人で国民党を創立、機関誌『百零一』創刊。幸徳秋水を万朝報に紹介する。明治33年(1900)、毎夕新聞の主筆となるがこの頃から食道ガンの症状が現れる。明治34年(1891)、『一年有半』『続一年有半』執筆。12月13日、小石川の自宅で死去。
幸德秋水
明治4年(1871)~明治44年(1911)
高知県幡多郡中村町に幸徳篤明(通称嘉平次)多治の二男として生まれる。本名、傳次郎。明治21年(1888)、中江兆民の書生となる。明治22年(1889)、中江兆民の家族と共に上京。明治25年(1892)、私立国民英学会正科卒業。明治26年(1893)、中江家に寄寓。自由新聞入社。英字新聞の翻訳を担当する。明治28年(1895)3月から4月まで広島新聞入社。明治29年(1896)、母多治を麻布市兵衛町に迎え同居。まもなく福島県三春辺の旧久留米藩士の娘朝子と結婚するが離婚。明治31年(1898)、黒岩涙香の創刊した万朝報入社。明治32年(1899)、国学者師岡正胤の娘千代子と再婚。麻布佐久間町に住む。普選期成同盟会に片山潜らと参加して幹事となる。明治33年(1900)、万朝報に「治安警察法案」「自由党を祭る文」を執筆する。明治34年(1901)、『廿世紀之怪物帝国主義』刊行。安部磯雄、片山潜、木下尚江、西川光二郎、河上清らと社会民主党結成。即日活動禁止。田中正造から頼まれて足尾鉱毒事件についての直訴状を起草。万朝報に「臣民の請願権」を発表。明治35年(1902)、『兆民先生』刊行。明治36年(1903)、『社会主義神髄』刊行。非戦論をとなえ堺利彦、内村鑑三とともに万朝報を退社。麹町有楽町の平民社から週刊「平民新聞」発刊。明治37年(1904)、平民新聞に堺利彦共訳『共産党宣言』を掲載。即日発禁。社会主義協会に解散命令。明治38年(1905)、新聞紙条例違反で禁固5ヶ月の刑を受け巣鴨監獄に入獄。7月28日、出獄。平民社解散。渡米。明治39年(1906)、オークランドのロシア革命「血の日曜日」記念集会で演説。オークランドで社会革命党を結成。帰国。明治43年(1910)6月1日、湯河原で逮捕。獄中で『基督抹殺論』を脱稿。遺書『死刑の前』執筆。明治44年(1911)41歳、1月18日、大逆事件被告24名に死刑判決。(12名が天皇の恩赦によ無期刑に減刑、内、5名獄死)同月24日、死刑執行。
大石正巳
安政2年(1855)~昭和10年(1935)
土佐藩土佐国(高知県)に生まれる。会津戦争に官軍として従軍。明治7年(1874)、板垣退助の立志社に参加。明治14年(1881)、自由党設立に参加し幹事となる。明治20年(1887)、後藤象二郎の大同団結運動に参加。明治25年(1892)、朝鮮駐在弁理公使となる。明治29年(1896)、進歩党結成に参加。明治31年(1898)、第1次大隈重信内閣で農商務大臣として入閣。衆議院議員当選6回。大正4年(1915)、政界引退。中江兆民の葬儀(宗教上の儀式なし)に際し演説を務める。
幸徳秋水 児玉勝助宛書簡
(封筒消印日付 明治35年7月13日)
弥御清健奉大賀候
陳者、兆民先生遺墨
写真御惠贈被下、正に
拝受仕候 御懇切の段
厚く奉感謝候
如仰此遺墨は実ニ天
下の一品と存候 之ニ対して
乍今更先生の生前ヲ
追想致候て無限の
感慨を催申候 他日
械ヲ得て廣く同好の
士ニ示し度と存居候
理想團の義は折角御尽力
力奉祈候 同趣意書は近
日御送附可申上候 小生も
未だ信州の山水を見たる
こと無之候ニ付暑中
間(閑)暇を得候はゞ貴地へ
一遊仕度、其節は是
非御訪問申上べく存居候
此頃は貴地も議員選
挙にて大分騒敷候由
申迠もなく候へども可成
潔白なる選挙を以て潔白
なる代議士を得度存候
乍末、小山太郎君御一家
へ宜敷御傳聲奉祈候
不取敢右禮旁、如此
ニ御坐候 早々頓首
七月十三日 幸徳生
児玉老臺
大石正巳 児玉勝助宛書簡
(封筒消印 明治22年5月23日)
拝復 兆民居士の「鍋
子在別人手」とは死活
の權を先方の人に握られた
る意味にして所謂飯鉢
を他人の手に握られたるな
り即ち蔵の鍵を人に取られ
たる形なり
禅者の問答に於て未徹底
者が大家に出逢ひたる場
合は常に先方の掌中に
翻弄せらるし有様なり
禅門の作家は常に鏌鋣
の宝剣を掌中に握り
殺活自在に学人を済
度す
鍋子の字句は只金子と云ふが
如し金の一字鍋の一字にてよき
処へ子の字を加へたるは呼び声
のよき為めなり
五月廿一日 大石正巳
児玉勝助殿
高知新聞記事
幡多出身の思想家、幸徳秋水(1871~1911年)が、恩師の中江兆民(1847~1901年)の死の約半年後に記した書簡が見つかった。兆民がかつて長野県で描いた山水画について、所有者からその写真が贈られてきたことに対する礼状。秋水は〈この遺墨は実に天下一品〉だとし、恩師をしのび感慨にふけったと記している。兆民は自由民権の大同団結運動を機に長野の人々と交流を深めたが、秋水はその人脈と遺志を生かし、新しい「理想団」活動につなげようとしていたことも分かり、研究者から注目されている。 見つかったのは、1902年7月に長野県坂城町の児玉勝助という人物に宛てた書簡。兆民の山水画や、仏教の禅語を記した兆民の書、兆民と同じ高知出身の民権運動家の大石正巳(1855~1935年)の児玉宛て書簡など、計5点がセットで名古屋市の個人宅に保管されていたのを、岐阜市の長良川画廊がこのほど入手した。
山水画は「秋深山骨痩 兆民写意」の文字と落款があり、秋の山の静かな空気が伝わってくる1幅。秋水は〈これに向き合い、今更ながら先生の生前を想い出し、限りない感慨に耽(ふけ)っている〉(現代語訳)と記している。
民権運動に奔走した兆民は、党派の枠を超えて政党主導による議員選出を目指した大同団結運動に参加し、40歳の時、長野県で演説。44歳の時には、仏学塾の教え子で長野出身の小山久之助の衆院選出馬応援のため長野を再訪した。山水画は、兆民が長野を訪ねた際に描き、小山の親戚の児玉に渡したものと推測される。
秋水と児玉の手紙のやりとりは、兆民の死からまだ間もない時期。文面には〈理想団の件はいろいろと御骨折り感謝〉とあり、秋水が万朝報の黒岩涙香(安芸出身)らと社会改良を目指して立ち上げた「理想団」への協力を求めたことが分かる。
近代思想研究の第一人者、山泉進・明治大名誉教授(72)=四万十市出身=は「秋水と長野の人々が、兆民ら土佐人脈を介してつながっていったことが実証された」と語る。個性的な人柄で愛された兆民。その死は、あらためて人をつないだと言える。
高知新聞特集