吉野秀雄/近代文学、哲学/掛け軸、絵画の買取 販売 鑑定/長良川画廊

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近代文学、哲学
C-225 吉野秀雄

C-255 吉野秀雄
Yoshino Hideo

 吉野秀雄 1
 吉野秀雄 2
 吉野秀雄 3
 吉野秀雄 4 吉野秀雄 5
作家名
C-255 吉野秀雄 よしの ひでお
作品名
吉野秀雄歌又書
価格
85,000円(税込)
作品詳細
掛け軸 紙本水墨 緞子裂 吉野登美子箱
  本紙寸法54×44.8
全体寸法(胴幅)72.7×136.5㎝
作家略歴

吉野秀雄
明治35年(1902)~昭和42年(1967)

明治35年(1902)1歳
群馬県高崎新町に生まれる。父藤一郎は織物問屋行を営み、後に株式会社吉野藤を起こした。
大正9年(1920)19歳
『福翁自伝』に感銘、福沢諭吉への敬慕から慶応理財科予科に入学、二年後経済学部に進む。
大正13年(1924)23歳
3月、肺患のため慶応を中退し帰郷、療養生活に入る。このため経済学を諦め、国文学を独修、子規、左千夫ら「アララギ」派歌人の歌集に親しむ。とりわけ子規の写生説と「竹乃里歌」に傾倒し、作歌を志す。
大正14年(1925)24歳
秋艸道人(会津八一)の『南京新唱』を読んで感銘。
大正15年・昭和元年(1926)25歳
気管支性喘息を起こし、これが生涯の持病となる。『南京新唱』中の難解歌について教えを求めるため、秋艸道人に手紙を書く。12月、かねて婚約中の栗林はつと結婚。同月、私家版の歌集『天井凝視』刊。
昭和4年 (1929)28歳
1月、肺炎のため危篤。二月、病中の歌を秋道人艸に送り、以後批正を受けるようになる。
昭和6年 (1931)30歳
従来、しばしば転地療養した鎌倉に永住することとし、鎌倉市小町に居を構え死に至るまでここに住む。
昭和8年 (1933)32歳
秋艸道人と初めて会い門人として出入りすることを許される。七月から吉野藤東京店に勤務、宣伝用月刊誌を編集発行。この頃から松岡静雄に師事、上代文学、言語学を学ぶ。
昭和19年(1944)42歳
2月、田辺松坡逝去。八月、妻はつ胃の肉腫のため逝去。亭年42歳。四児をかかえて妻に先立たれ途方に暮れたが、歌作によって自ら励まし、「玉簾花」「彼岸」など一連の傑作を書く。
昭和20年(1945)44歳
二児が疎開していた富岡で終戦の日を迎える。11月、母サダ逝去。
昭和21年(1946)45歳
4月、鎌倉アカデミア文学部の教師となり廃校まで四年間勤務。5月、良寛自筆歌縞『ふるさと』の釈文冊子(十一組出版部)刊。財産を失い、定収入もなく、生活ますます困窮。
昭和22年(1947)46歳
1月、小林秀雄編集の「創元」創刊号に「短歌百余章」を掲載。広く注目される。8月、『鹿鳴集歌解』(創元社)刊。10月、歌集『寒蝉集』(創元社)刊。これによって歌人としての声価定まる。同月26日、八木重吉の未亡人登美子と再婚。11月、『早梅集』(四季書房)刊。
昭和24年(1949)48歳
6月、互評自註歌集『寒蝉集』(木俣修と共著、講談社)刊
昭和31年(1956)55歳
1月、喀血して療養生活に入ったが、4月、糖尿病を併発し入院。
昭和32年(1957)56歳
7月、『良寛和尚の人と歌』(彌生書房)刊。
昭和33年(1958)57歳
4月、八木重吉の詩業を集大成した『定本八木重吉詩集』(彌生書房)を編集出版。
昭和40年(1965)64歳
正月来、糖尿病再び悪化。
昭和41年(1966)65歳
2月、新潟で開く個展のために、四年ぶりに病床から起き出て揮毫し、計43点を完成。
昭和42年(1967)66歳
4月、『やわらかな心』と『心のふるさと』により、第一回釈迢空賞を受賞。
7月13日、死去。

(『現代の随想15 吉野秀雄』より作成)
コンディション他

《尊氏が仏に縋る仮名の文この世は夢と書き起こしけり》

美品です。