島村抱月
明治4年(1871)~大正7年(1918)
石見国那賀郡小国村(現在の島根県浜田市金城町小国)で生まれる。幼名、佐々山瀧太郎。幼少期に生家が没落、浜田町裁判所検事島村文耕の養子となる。明治27年(1894)、東京専門学校(早稲田大学)卒業。在学中、文学を坪内逍遙に、哲学を大西祝に学ぶ。明治31年(1898)、読売新聞社会部主任となる。同年9月、大西祝の後を受けて母校の講師となり美辞学、支那文学、西洋美学史を講じ、かたわら読売新聞の『月曜付録』を主宰した。明治35年(1902)から3年間、早稲田の海外留学生としてイギリスとドイツに留学、主に西欧近代文学、演劇を学ぶ。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、『早稲田文学』を復刊(第二次)して主宰。自然主義文学運動の旗手の一人となる。また、坪内逍遥とともに文芸協会を設立し、協会附属の演劇研究所において本格的に新劇運動をはじめるが、大正2年(1913)、研究所の看板女優、松井須磨子と恋に落ち、文芸協会を脱会する。同年、松井須磨子らと芸術座を結成。翌3年、トルストイの『復活』を脚色演出し好評を博し、須磨子の歌う劇中歌『カチューシャの唄』が一世を風靡する。大正7年(1918)、スペイン風邪により急死。須磨子もその二ヶ月、抱月の後を追うように自殺する。
惜ミてもとまらぬものは年月に もと聞きすこす老の身して
本紙に若干の小折れ。