浮田一蕙
寛政7年(1795)~安政6年(1859)
京都の人。名は可為(よしため)。別号、一蕙斎、昔男精舎など。大和絵の田中訥言に師事。宇喜多秀家の後裔といい、詩文と和歌に長じた勤王家でもあった。安政5年(1858)、安政の大獄で捕縛されるが翌年釈放される。代表作に「神風夷艦を覆するの図」、公武合体策による和宮降嫁の策謀を風刺した「婚怪草紙絵巻」など。
六人部是香
寛政10年(1798)~文久3年(1863)
山城国乙訓郡(現在の京都府長岡京市)向日神社祠官六人部節香の養子となり、その職を継ぐ。通称は縫殿、美濃守。号は葵舎、篶舎(すずのや)。文政6 (1823) 年、江戸に出て平田篤胤に入門。主著に『顕幽順考論』『長歌玉の小琴』『古道本義伝』『産須那社古伝抄広義』。
【原文】
みすゝかるしなのすみた川
昔男楼より御起居伺候
文とも届候哉否新年
目出度迎春御栄昌
奉賀候父子無異乍憚
御安意可被成下候去七月
御造営二付一日も入洛之旨
修理御奉行より蒙命帰郷
後無寸暇御ふさた仕候例之
御会始しなのより御さし出候
其后御無音に而心外之至に存候
春来腫物に相悩み平臥致候
しかし近々には全快と存候
新年
太平生時節六十有一春
光蔭如旅客前途順
物新
前文略
天地のひらけそめにし
むかしより
幾歳呼やまは
ふしのね
すみた川懐旧
伸上りみめくり見れは
ふねのうちに
きしの花ちる
すたの春かせ
花その少将君より梅を
おりて給りけれは
ふして見る梅のさえたの
うちむかふ海のうみにと
うつるをふかき
不特丹仙験截肉且啣杯
毀傷不絶悲臥見瓶中梅
右病間作
御憐察可給候
先は年始御祝詞起居
如此義候恐惶謹言
二月十三夜 豊臣可為
篶舎君
侍史御中
時候不順御自愛専一
奉祈上候