高楠順次郎
慶応2年(1866)~昭和20年(1945)
広島県御調郡八幡村字篝(現在の三原市)の農家に生まれる。幼少より祖父から四書五経の素読を習い、10歳の頃には、詩経、唐詩選を朗唱した。宮内尋常小学校8年の課程を4年で終了し、15歳で小学校教員となる。明治14年(1881)、小島忠里、古沢滋が設立した自由民権派の立憲政党に入党する。明治18年(1885)、同郷の学僧、日野義淵の誘いにより、小学校教員を辞して西本願寺が京都に創設した普通教校(現龍谷大学)に第1期生として入学。在学中、後の『中央公論』となる『反省会雑誌』を創刊、主筆を務め、徳富蘇峰の『国民之友』と並び、青年らから熱烈な支持を受ける。明治22年(1889)、同校を卒業し、高楠孫三郎の婿養子となる。翌23年、孫三郎の援助を得てイギリスに留学、オックスフォード大学でM.ミュラーに師事、インド学を学ぶ。その後、プラハのカレル大学、ドイツのベルリン大学、キール大学、ライプツィヒ大学でも研鑽を深め、インド学、サンスクリットの他に言語学、宗教学、国際法,近代史を修める。明治30年(1897)、帰国し、東京帝国大学(現在の東京大学)で梵語学の講師となり、明治32年(1899)、同学教授となる。東京外国語学校(現在の東京外大)校長を兼任する。明治33年(1900)、現在の中央学院大学の前身である日本橋簡易商業夜学校を設立。明治38年(1905)、オックスフォード大学から博士を授与される。大正12年(1923)、大正新脩大蔵経を企画、渡辺海旭とともに責任者となる。大正13年(1924)、現在の武蔵野大学の前身である武蔵野女子学院を設立。昭和19年(1944)、文化勲章を授与される。
【原文】
御手紙拝見致し候。旧冬ハ拝
参、色々御厄介ニ相成、難有奉存候。
悉曇流布目録ハ御写本、
小生方へ送越候ニ付、別ニ御写命被下
候ニ不及候。御厚志難有奉存候。
両界曼荼羅之義ハ何れ写真
致候様取計申度候得とも、仏書刊
行会も未発表不致候事ゆへ、後
日、此方準備相成り候時、更ニ御許
可を得て写真製版致候事ニ
致度存候。
顕阿和上筆光明曼荼羅破片
之義ハ頂戴いたし度、其内幸便之
節頂戴ニ罷出可申候。仮令破片
にても顕阿師之ものハ貴重ニ候間、
必御取置可被下候。
小生今月二十七八日東京発帰国
之上、三月七日頃出発、海外へ出張
致、序を以て、印度へも廻遊之上
来年四五月頃ニ帰朝致之
心算ニ御座候間、何れ帰朝之上にて拝
受可致候間、左様御承知可被下候。
先ハ御返事旁御礼迄如此ニ御座候。早々
高楠順次郎和南
岡阿弥禅戒様侍史
(封筒表書)「京都市外嵯峨局区内、宇多野常楽院、岡阿弥禅戒様」
(封筒裏書)「府下千駄ヶ谷町九百三番地、高楠順次郎、顕阿師伝記ハ後日伝記編成之節御写取可頼出候。」
【現代語訳】
御手紙拝見致しました。旧冬は参上の上、色々と御厄介になりましてありがとうございました。『悉曇流布目録』は御写本を小生の方へ送ってよこしましたので別に御写しくださらなくても結構です。御厚志は有り難く存じます。「両界曼荼羅」の事は、いずれ写真を撮影するように取りはからいたいと存じますが、仏書刊行会も未発表のことはしないとの事なので、後日、こちらで準備できました時分に、改めて御許可を得て、写真製版いたしたいと存じます。顕阿和上筆の「光明曼荼羅」の破片の件は、是非頂戴いたしたく存じます。その内に、幸便がありました際にご連絡申します。たとえ破片であっても、顕阿師のものハ貴重でございますから、必ず御取り置き下さいますようお願いします。小生は今月二十七八日に東京を発って帰国し、春三月七日頃に出発、海外へ出張致します。このついでに印度へも廻遊して、来年四五月頃に帰朝する心算でございます。何れにしても、帰朝の後に拝受いたしたく存じますので、そのように御承知置きください。先は御返事かたがた御礼まで申し上げます。早々