西園寺公望
嘉永2年(1849)~昭和15年(1940)
右大臣徳大寺公純の子。兄は明治天皇の侍従長徳大寺実則。嘉永5年(1852)、西園寺師季の養子となる。戊辰戦争に参加。明治4年(1871)、フランス留学。明治13年(1880)、帰国し明治法律学校を設立。中江兆民らと『東洋自由新聞』を創刊。明治15年(1882)、伊藤博文の憲法調査に随行し渡欧。オーストリア、ドイツ、ベルギーの駐在公使をつとめる。明治27年(1894)、第2次伊藤内閣の文相として初入閣。明治33年(1900)、枢密院議長。大正8年(1919)、パリ講和会議の全権委員。最後の元老として、大正デモクラシーや政党政治の時代の政界に君臨。後継首相推薦の任にあたった。
自作新詞韻最嬌 小紅低唱我吹簫。
曲終過尽松陵路 回首煙波十四橋
自ら新詞を作り韵は最も嬌たり
小紅低く唱い我れ簫を吹く
曲終りて松陵の路を過尽す
首を回らせば、煙波十四橋
本紙、若干小シミ。表具裂特上。